【BL連載】シグナル・レッド03

   国吉轍・2

 鷲谷麟の投稿から日が経つにつれて、客足は落ち着きを取り戻していった。
 それでも、慧一の忙しさは増していった。
 それというのは、迷惑な客が目立つようになったからだ。
 たとえば、朝のオープン前から店の様子を窺っている客がいたことがある。俺が店に近寄れないため、慧一が客に対応し、そのうちに俺は死角から裏口へ回った。
 また、イートインスペースにずっと居座る客もいた。どうやら鷲谷麟が来るのを待っているらしい。他の客の迷惑になるからとやんわり注意すると「せっかく食べに来てあげているのに」という嫌味を慧一が言われたと茅野さんを通して聞いた。
「これ鷲谷さんに」
「麟くんいつ来るんですか?」
 直接訊ねてくるファンもいるらしく、慧一は普段の接客に加えて鷲谷問題も担当しなくてはならなかった。濱くんを除くバイトは女性スタッフで、彼女たちがファンの対応をすると謂れのない妬み嫉みを受けるからだ。
「本当に知らないんですかぁ?」
 大抵の客は一度否定すると納得するらしいが、粘着気質のファンはしつこく慧一につきまとうと聞いた。
 そして、ついに慧一がキレた。
「知るかよ! クソ鷲谷ぁ!」
 椅子や壁に当たりはしないが、閉店後のスタッフルームで慧一が絶叫することが増えた。
 俺は俺で、店の様子を監視されている気がして神経が昂る。店の様子を窺いに行くこともできず、黙々とフルーツサンドをつくる機械として調理場にいた。
 好きで選んだ道だ。こうして調理製造をして、それを食べてもらうこと。美味しいと、喜んでもらうこと。
 自分が店に店員として顔を出さないということも。俺が自分で選んだ生き方だった。俺がフルーツサンドをつくり、慧一が店で売る。二人が望んでしてきたことだ。
 それでも、どうしてだろう。今の状況に満足できないのは。
 定休日にリフレッシュするべきなのに、店に意識が置かれたままのようにスイッチが切り替わらない。俺は休日にもずっと誰かの目を気にして、外出することさえ神経質になっていた。ストレスフルなのは慧一も同じらしく、ジョギングやボクササイズで黙々と汗を流していた。
「慧一」
 夕食後に洗面所から戻ってくると、慧一はソファーに倒れこんでいた。
 俺よりは小さいが平均より高い長身を二人用のソファーに折り畳んで入れている。
 お世辞にも快適と言えない姿勢で休息をとる慧一の頬を撫でると、少し熱い気がした。
「んー……」
 気だるげに瞼が開く。俺がこのまま黙って触れなかったら、きっと寝落ちしていただろう。
「風呂入ってきたらどうだ。洗い物はやっておく」
「いや、オレもやる。疲れてんのはお互い様」
 負けず嫌いで律儀なところは、高校の頃と変わらない。それは美点だが、こんなに長く一緒にいるのだからもっと頼ってくれていいと思う。
 慧一はのそのそと起き上がると、ちょいちょいと俺を手招きした。
「ちょっと、こっち」
 隣に浅く腰かけると、慧一は直線的に俺の脇に手を通して抱きつく。
 柔らかい茶色の髪が首元に触れる。無言で額を肩口に押しつける慧一に、自然と腕は回っていた。
 背中を撫でると、俺を抱きしめる手がぎゅうと強くなる。
「オレ、今の売れ方あんまり好きじゃないけどさ」
「ああ」
「でも、売上めちゃくちゃ伸びてるのは事実だし」
「そうだな」
 慧一の声は、眠いのかまるくて甘い。
 柔らかい髪に頬を寄せると、ここのところあまり家で触れ合っていないと気づいた。胸にもたれる体が重くて心地いい。
「轍」
「うん」
「頑張ろうな」
 慧一が珍しい言葉をつかった。
 これは俺に言ってるんじゃない。慧一が自分に言っている。
 胸の奥が苦しくなって、息ができない。
 普段は不平不満をすぐ口にして、ころころ表情を変えるのに、慧一は最後の救援を俺に出さない。俺を助けようとからかうように笑うばかりだ。
 いつも、いつも慧一は俺を支える側に回る。仕方ない、と零しながら俺の頑なで融通の利かない気持ちを融解しようと試みる。
 背中にしがみつく手はすぐ傍にあるのに、まるで分厚い皮膚を纏ったように遠い。
「……大丈夫だ」
 だから、せめて少しでも近くなるようにと、俺は慧一の体を包みこんだ。
 否応なくここにいるとわかるように。接した体温がまたわずかにすり寄った気がした。

(続)

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