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宗教と戦後思想史⑦自力本願

最近は仏像とか墳墓とかに少しずつ興味をひかれるようになり、地方へ出かけた時にはそうした所へ足を向けることが多くな りだした。これは多分年のせいで、鮭や鱒が最後には生れた川へ帰ってくるように、人間にも大きな回帰性があるのかも知れない。
 しかし、仏像にしても墳墓にしても専門的なことは私にはなにも分らないし、これからもそれらについて研究を深めたいなどの気持は毛頭ない。むしろ仏像に今いちばん強く興味をひかれるのは、最初はお釈迦さんの像だったのが、次第に如来や菩薩が現われ、時代とともに明王その他の仏像にまで数の広がっていることだ。民衆は最初釈迦の像に祈ったのだ。自分の命の長さを、病気の苦しさを、生きていくための苦しさの数々に救いを。
 しかし、 釈迦の像がこれを受け入れてくれないので、次々と新しい仏像の 数と種類を増やしていったのだ。仏像の移りかわり、その数の多さを見ていると、ひたすら祈りに祈ってもその願望のかなえられない、民衆の喘ぎと呻きのようなものが、なにか土の底からでも湧いてくるように私には感じられる。

 やがて人々は仏像から離れ、もっと抽象的なものに頼るようになった。南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかの一口でいえる短かい言葉である。眼に見える対象物よりは、自ら発する言葉、肉体と心に直接ひびくその語感のいきづきに依り、救いを得ようとしたのである。しかし、その言葉も現在では大多数の人にとっては、なんの縁もゆかりもない、文字通り空念仏になってしまった。釈迦の予言通り、世はまさに仏法としては末法の時代に入ったのかも知れない。

 人間に回帰性があるように、時代や思想そのものにも大きな回帰性がある。釈迦の生きるための知恵、難しくいえば哲学だが、それが平面的な仏画から仏像を生んだ結果、宗教となり、最後は抽象的な言葉になって終るように、これからの宗教は、現代およびこれから先をどう生きるかの知恵、その新しい哲学に依って始まる。

 しかし、人間が現在のような状態になるまでには、気の遠くなるほどの時間と、段階を経たように、また人間の生み出した技術の最先端、太陽を手にしたともいえる核分裂にしても、長年月の 段階的な論理と技術の積み上げに依るものであり、新しく生きる 知恵といっても、これまでのものと全くかかわり合いのない異質なものでは、現われてもそれはごく一時的で、人の心にも定着しないし、発展する力もない。とするとこれからの哲学、つまり宗教はこれまでのもののなにをいったい根とするのだろうか。

 人間およびその社会にどれほど強い回帰性の指向があろうとも、眼に見える対象物を拝む、他力本願だけはもうあり得ない。 自分自ら発する語感のひびき――残されているのは、自力本願とそれが自覚されず、まだ眼に見えないなにかを頼っていたあの短かい言葉、そしてそれは現代に到ってもなお他力の切ない救いのひびきを残しながら、歳月の中に埋没してしまったものの見なおし、新しい息吹に依る再発見である。その本質は決して他力ではなく、自分自らを凝視して救済する冷静で強い意志、そしてそれは直ちに行動への方向を示すもの、分りやすくいえば祈りは誰に向けるものでもなく、自分自身が自分自身へ祈るもの、この自力本願の新しい確認だけである。

 この短かい言葉を、単なる古くさいカビのはえた抽象的なものに終らせず、これにどれだけあらゆる近代的な光りを実証的にあてるか、それがこれからの氏の道のような気がする。

写真集 人間革命の記録 写真評論社昭和48年3月8日

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