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おきあがりこぼし

いっとき、ぶれない強さがよく思えた。そも。当時は自分の考えや意志が他者の意見や環境に左右されず、強固で微動だにしないこと。ぶれないことをこんなふうに捉えていたものだから、そうできないぶれぶれの自分自身にガッカリすることが少なくなかった。

以前、こんな質問をされた。「海外に住む姑を夫婦で訪ねることになった。せっかくの海外旅行であるし、嫁はレストランでの食事を楽しみにしている。ところが、姑は手づくりの和食を用意するとはりきっている。が、実は姑は料理下手。嫁としては姑の料理は食べたくない」この嫁があなたならどうしますか。

当時のわたしならきっとこうだ。

この場合の意志は姑の手料理を食べないこと。それだから食べない理由をあれこれ考える。でも結局のところ、姑の料理を食べない正当なことわりを考えあぐね、わたしは姑の料理を食べるだろう。だって、姑とわたしの関係だけじゃなく、わたしと夫、夫と姑の関係もあるのだ。食べない(本当のところは食べたくない)自分の思いを押し通したとて、姑の食べさせたい思いはどうするのか。そこをないがしろにしてレストランで食事をしたとしても、滞在期間中の居心地の悪さという別問題が生じそうだ。で、結局はぶれる(姑の料理を食べる)自分にガッカリし腹を立てる、というわけだ。

しかし、いまは少し違う。

姑の料理も食べ、レストランでも食べる。食べるという点では同じであるが、心持ちに変化がある。料理下手と思っていた姑の料理でも発見することはあるかもしれないと思うようになった点だ。食べないという軸を基に揺れる。肯定的にぶれる。

ほら、あれ。おきあがりこぼしみたいな、ゆらゆら。


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