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七人の敵

そのひとは20年ほど前に知り合った、いわゆるママ友。子どもたちの成長とともに会う頻度は激減したが、暮らしている地域は同じであるからいまでも数年に1度、道やスーパーマーケットでばったりと遭遇することもある。姿を確認した折には「元気?」と、手を振り立ち止まり、子どもたちの近況を報告しあうひとりである。意地悪だとか感情的なひとで疲れるというわけではない。彼女は知りたがり。
「素敵な鞄! どこの?」
「高そうね、おいくらぐらい?」
「ご主人との出会いは?」
この程度の知りたがりや詮索好きは世間にごまんといる。だが、別れたあとのぐったり感に加え、さながら敵地で気を張りながら話すような心持ちにさせられるのは、ただただ、相性のよくなさなのだと思われる。それでひそかに「アウェイのひと」と呼んでいる。きっと彼女にとってのわたしも「アウェイのひと」だろう。
 
20年まえといえば、Jリーグ(サッカー)人気が落ち着きだした時期にあたる。「ホーム・アンド・アウェイ」という言葉が耳馴染じむころに、わたしは夫と話すときにだけ、彼女をこう称した。
とは言っても、よくよく考えてみると、わたしにとって「アウェイのひと」はママ友の彼女だけではない。家人たち以外のだれといるときでも、少なからず気を張っているし、ひとりになった途端ぐったりとなる。つまりほとんどのひとが「アウェイのひと」と言ってもよいのだ。

そういえば「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という諺だってあるじゃないか。男は社会で活動するときには多くの敵がいて苦労する、というたとえである。その昔は男と言い切ってしまっただろうが、いつの時代であろうが性別問わず、敷居を跨げはそこらじゅう敵だらけなのじゃなかろうか。敵というと語感がきつい。「アウェイのひと」だらけ。これだと相手の問題でなしに自分の問題である。語感もやさしくて、それほど悪くないような気がしてきた。

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