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僕たちは、春を失うのか

2020年の春、というのはおそらく今後一生語り継がれるだろう。
数々のライブの中止に始まり、春のセンバツ甲子園は歴史上初めての中止となった。
卒業式や入学式などオフラインでのイベントも次々中止となった。
緊急事態宣言が発令され、海外の渡航はほぼ不可能となり、帰省なども緩やかにしないことを推奨されている。
働き方も多くの人はリモートに切り替わり、営業活動を停止した企業も少なくはない。観光業界や飲食業界は次々と倒産を発表し、就職活動も明らかに激変した。
そして、3月の末には季節外れの雪が降るころ、(桜にかかる雪、というのは普段ならどれだけロマンチックな景色だっただろうに)時代を盛り上げた一人の芸人が天に召された。
 
テレビの中のアナウンサーは深刻な顔で「未曽有の状況」と語り、インタビューを受ける人たちは「生きてきて初めて」と語った。
僕も、27年間生きてきて、これほどまでに多くの人が不安な顔で、辛そうな顔で日々を過ごしているのは初めてだし、何より両親や祖父母の安否をこれほど気遣ったこともなかった。
 
ただ、僕はもう大人と言って差し支えない年齢で、僕が責任を持っている仕事は多くの企業が人によって元気なることであり、多くの学生が希望をもって社会に出るための後押しをすることだ。
正直、少し気を抜けば絶望に簡単に引き寄せられてしまう。
それでも、リモートワークで閉じ込められたこの狭い部屋の中で、少しでも明るいメッセージを伝えようと、今日もパソコンの前でじっと固まっている。
 
就活生たちの不安が痛いほど伝わるし、事業存続に不安な社会人たちの声に毎日泣きそうになる。
本当に無力さに心折れ、不安に怯え布団にくるまって時が過ぎるのを待ちたいと何度も思うけど、それでも、多分今無力さを抱えているのはきっと僕だけじゃなくて、その事実が、かろうじて何かを生み出そうと必死にさせてくれる。
 
僕は、このどうしようもない状況に一つ感謝しているのは、
こんなときだからこそ、また無事で笑いあって会いたい人たちがいるということを認識することが出来たことだ。
9年前の3月、近くて遠い東北で大きな被害が出たときも、僕は自分の周りの人が今ここにいることに感謝していた気がするが、それから多くの人に出会い、大切な人の数も増え、改めてそれを実感した。
 
自立するということは、依存先を増やすのだという話を聞いたことがあり、まさしく僕はその依存先を増やすことで日々助けられているのだが、危機的な状況になると、いなくなって欲しくない人の多さに、必要以上に不安になっている。
 
「大丈夫?」と聞いている行為は、自分が無事で、また無事で会いましょうねということを祈る行為なのだ。
 
それぞれが一人も救えないかもしれなくても、一人でも救いたかった人たちがこの状況下でもがいていれば、結果として誰かが全然違うところで救われるかもしれないし、何よりも誰かのためにもがいている人たちが、手をつなぐことでお互いを救うところから始まればいいと思う。
 
いつかこの春が、それぞれにとって無くてはならなかった春になればいい。
時間がかかっても、何世代もまたいでも、季節が来るたびに悲しむ人が出るのは、やっぱりちょっと辛い。
 
僕はこのタイトルに「春は失われるのか」と書いた。
大丈夫、大丈夫なはずだ。
今日はエイプリルフールだから。
 
仮に失われて、奪われる春があるなら、取り返す春があったって良い。
誰に向けて書いているかわからないこの文章だって、いつかの自分を救うものであればいい。
 
 
また、居酒屋でみんなと飲める日を心待ちにして。

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