作品「フタを開ける」



フタを開ける         
 
 
 二一世紀は、二〇世紀の残像に一つずつフタをしながら、進んでいるように思う。フタの中に収められているものは、当時の日常的な風景であったり、とりとめもない想いであったりする。でも、その過去の断片が、現在の輪郭をうっすらと描いていることに気づく。過去は、未来を含んでいるのだろうか。
 
 では、フタをひとつ開けてみよう。
 
 学生の頃、左京区の北白川という町に住んでいた。近くに疎水が流れている緑豊かな住宅街だ。そんな町に、木造の学生アパートが戦前から建っていた。威厳を感じさせる門構えは、寺院のようだった。
 
 そのアパートは、大学生協で見つけた。初めて見に行った日のことは、まだ覚えている。今出川通りを東へ、百万遍の交叉点を北へ、そして御蔭通りに入る。その時、京都にこんな美しい道があるのかと驚いた。なだらかな坂道、空を覆うニセアカシヤのきらめき、じっくりと年輪を重ねた町並み。この通りを、通学路にできたら、それでいいとさえ思った。
 
 重い扉を押し開けると、太い柱と黒光りしている廊下が出迎えてくれる。そして、急な階段と幾時代もの空気を凝縮したような土壁。共同便所のタイルはやけに眩しかった。二階の狭い部屋の窓から濃緑の比叡山が、静物画のように目に入る。夏は暑く、秋からすでに寒かった。冬はオリーブオイルが凍てついた。そんな部屋で暮らすことは、小さな修行だった。
 
 建物全体は、コの字型をしているので中庭があった。そこに使われなくなった井戸が残っていた。しんとした休日の午前、ぼくは小石を落としてみた。水面に映った遠い青空が一瞬崩れ、そして、また元に戻った。
 
 庭の隅には壊れかけのコイン洗濯機があった。ある朝、空気は、すでに温かく、いつものように静かだった。ぼくは、久しぶりの洗濯を終え、雨晒しで傷みつつあるコンクリートに寝ころがり一九九六年七月の何もない空を眺めていた。ところどころに白い雲が浮かんでいて、どこか見知らぬ場所へ流れていった。
 
 もちろん、風呂などなかった。白川温泉という銭湯に何度も通った。アパートによく似たどっしりとした木造建築。ひと気が少ないぶんゆっくり湯舟に浸かっていた。二九〇円の贅沢、あるいは孤独。
 
 白川通り沿いのスーパーマイケルでアルバイトをしていた。高級な食材を並べた店で、駐車場には、瀟洒な外国車が次々とやって来る。お客さんのほとんどが、上品な身なりをしている。ぼくは、いつまでも不慣れなレジ係だった。そのためだろうか、お釣りを渡すぼくの目を、まっすぐ見つめる人が多かった。
 
 学生時代を終え、十年以上が経った。京都に用事がある度に北白川に寄り道をする。スーパーマイケルでハイネケンとパンを買い、公園の藤棚の下で昼食をとる。その後、下宿先と白川温泉の存在を確認する。そんなことを四回繰り返した。前回、訪れたとき、すでにアパートは閉鎖されていた。住人を失った門には、錆びた鍵がかけられていた。







『歩きながらはじまること』(七月堂)
『フタを開ける』(書肆山田)

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