評価経済も貨幣経済も指標のスコアを上げることを人生の目的にしてしまうが、それは幻想なんじゃないか?

この前、「いいひと戦略」や評価経済って微妙じゃないか?というような記事を書きました。
プロセスが見える化されても、プロセスを把握するのに時間がかかるために、努力を認知されないことも多いから、指標とか気にせずに自由に生きようという話でした。

そもそも、評価経済でも貨幣経済でも指標のスコアを上げることを至上命題にしているが、何のためにそのスコアを上げるのかを考えずにゲームのレベリングのように、フォロワーを増やしたり、預金残高を増やしている人がたくさんいる気がしている。
そして、特定のスコアを伸ばし続ける戦いを続けていくと、そもそもなぜそのルールがあるべきだったのかというところから外れて形骸化していくような気がするのである。
つまりは英才教育を受けてあらゆるテストで満点を取ったとしても、
君は何ができるのかね?⇒満点を取ることができます
具体的にどういったものを作りたいですか?⇒満点の答案です
それによってどうやって儲かる仕組みを作りますか?⇒儲かる仕組みをマニュアル化してくれたら覚えることができます
となり、新たな仕組みは生み出されず、謎のテストのスコアが上がるだけなのである。
街の教育には罠がある気がする。

そして、なんでそうなっちゃうのかを考えてみたところ、そのルールが成り立っている世の中しか知らないからな気がしてきた。
そのルールが成り立つ前の世の中を知っていると良い。どこで知れるのか?それは田舎である。
田舎では人の社会がどうやって成り立っているかが垣間見えたりする。
魚が取れる場所に人が集まって、それを加工できる工場を建てれば儲かるぞというようなカタチで本当は社会は発展していくべきなのである。
そんな記事をこの前書いた。

だから、指標上げゲームでは豊かにはなれず、豊かになるためにはこういうことができればいいという目的を考えるところから始める必要がある。
その後に、じゃあ、それを実現するためにはどういったことを勉強すればいいから、これについて詳しくなって分かるようになったらあれを作ろうという考え方をしていかないと厳しいんだろうなと思った。

そして、評価経済も貨幣経済も目的のないスコア上げを誘発させることが良くないのだろう。
狂ったスコア上げについて、ある例えが頭に浮かんだ。
バビルサという生き物のオスは、メスにモテるために大きい牙をもつが、最終的にはその反り返った牙が脳天に刺さって頭蓋骨を突き破って死ぬそうだ。
お金や評価を稼ごうとして狂う人も、バビルサとそんなに変わらない気がする。
自分を●してしまう指標を上げているのかもしれない。


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