自由主義とは思春期を脱せずに年を食い子供のまま朽ちる権利なのかもしれない

前振りから入るが、無料コンテンツを消費して生きながらえることを解像度を上げて考えてみると、そもそも無料コンテンツの大半はジュブナイルコンテンツがジャンク化したものである。
ジュブナイルコンテンツとは思春期の年齢層がお小遣いで買えるコンテンツをここでは指し、年月が経ち周辺グッズなどで利益を出せなくなると雑にサブスクに投げられることになる。
で、これが懐かしいしほぼ無料だから時間を投じて見てしまうのだが、そうすると人生が思春期のまま止まってしまうのではないかという懸念がふとわいたのである。
無料コンテンツは不景気な世の中との親和性が非常に高く、表題に戻るが、思春期を脱せずに年を食い子供のまま朽ちることになってしまうのかもしれないなとぼんやり考えたりする。

では、どうして「自由主義とは思春期を脱せずに年を食い子供のまま朽ちる権利なのかもしれない」かというと、自由に子供のまま生きていたいという願望を実現させたのが現代の自由主義なのかもしれないなぁと思ったからである。
自由とは社会の制約から抜けることだと考えている。社会の制約の一つとして一定の年齢になると社会を回す歯車の一つとして行動しなくてはいけないという考え方がかつてはあったが、その制約を打破して現代人は自由に子供のまま生きるようになったのかもしれない。
システム化によって社会に人が要らなくなると、ヒトは電波インフラから流れる無料コンテンツに集まってくる野良猫のような存在になってくるのかもしれない。そしてその野良猫は思春期を脱せずに年を食い子供のまま生きているような気がする。

で、労働人口が足りてないとシステム化で社会を回さないとどうにもならないのでこういった傾向は加速するが、自分が今そういった社会に身を置いていることを自覚したほうがいいのだろうと最近は思い始めた。多分気をつけないと気付いたら子供化してしまっているのだろう。
対策としては体験を伴う行為だったり、あとは労働人口の割合が多い国に行って、ITシステムだけではなくて人が社会を回している光景を見ることなのかなと思う。

まとめると、働き手が少なくITシステムで社会を維持している自由主義の国家ではジャンク化したジュブナイルコンテンツを消化して思春期を脱せずに年を食い子供のまま朽ちる生き方が一定の立場を持ち、それがある程度権利として保障されていて、その結果横たわり的に生きていくことにもなりがちである。これは割と幸せではあるのだが、インフラの周りで寝そべった野良猫のように怠惰になっていくので、歯止めを各々が持っていないと危険なのかなと考えている。そしてインフラ猫から人に戻りたいなら、活気のある国に旅行して色々感じたり考えたりするのがいいのかなと思ったので雑記としてまとめました。

以上。長々と失礼いたしました。

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