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しなやかな刃 (2)


 GRAPEVINEは、1997年にメジャーデビューしたバンドだ。最初は4人だったけれど、途中でリーダーの西原さんが療養のために脱退して3人になって、今は5人で演奏している。デビューして、2年経ったくらいで発表した「スロウ」と「光について」がたくさん売れて、一時期はMr.Childrenにつづくバンドのように言われていたこともあるらしい。
 名前を出すと、だいたい「光について」は聴いたよという返事をもらう。「光について」は聴いたけど、そういえば、今はどうしてるの?
 わたしは逆に、その頃を知らないんです。初めて聴いたのは、2007年。デビュー十周年の年でした。なんていうか、根底に流れるものは同じだけど、でも、進化していて。その頃と今とでは全然ちがうと思います。どの時代も好きですけど、わたしは今のほうが好きです。あの、風が流れる感じっていうか。
 懸命に訴えると、これもまただいたい、へえ、と返される。へえ、そうなんだ。そうなんだ、のつづきを聞けることはすくない。

―GRAPEVINE、俺、受験のとき「会いにいく」と「ぼくらなら」、めっちゃ聴いてました。わかります?
 大変だ。せっかく話ができそうな人を見つけたのに、すぐに思い出せない曲名を言われてしまった。もちろん、名前は知っている。世に出た時期もだいたいわかる。けれど、メロディが出てこない。仕方なく正直に伝えると、坂爪さんは少しだけがっかりしたように、でも小さく笑ってくれた。坂爪さんは、優しい。
―俺、姉がいて。姉が(GRAPEVINEを)好きで、
 「あね」と平坦に発音するのではなく、「あ」にアクセントを置くのがキュートだ。新潟のご出身とどこかで読んだ。そちらの訛りなのだろうか。
―田中めっちゃ好きー、かっこいいーって、めちゃめちゃ言ってました。
 田中とは、ボーカルの田中和将氏のことだ。他のバンドをあまり知らないので、相対的にどの程度のものかわからないが、田中氏の女性からの人気はかなり高いように思える。
 ルックスと声、ひねくれているようでその実純粋すぎるほどにまっすぐな詞(氏は作詞も作曲もされる)、については坂爪さんのお姉様とまったく同じ単語を口にせざるを得ないが、お姉様にとってはどこが魅力的なのだろうか。そして、坂爪さんにとっては。
 自分は同性だから、同性の格好良さを感じる、という趣旨のことを坂爪さんは仰った。興味深い視点である。また、「感傷」という単語も何度か出された。これもまた、興味深い切り口と思う。
 たしかに田中氏は、男性からの支持も根強いと聞いたことがある(完璧だ)。そういえば聴きはじめたきっかけも、たいそう熱心なファンをしていた男友だちが、家に遊びに来た折にたまたま、買ったばかりのCDを聴かせてくれたことだった。そしてたぶん彼も、わたしが好む曲よりは坂爪さんの挙げる曲を支持する気がする。

 決して
 この道の歩き方を 知らないわけじゃない
 上着が要る事も
 ―「ぼくらなら」 作詞:田中和将 作曲:亀井亨

 男の人がこんなふうに弱音を吐く生き物だということを、長く知らないでいた。この歌も最初はぴんとこなかった。今は、少しだけわかる。女の人よりもよほど繊細で優しい、それなのにいつも、つまらないことで強がらないではいられない不器用な動物たち。
 たとえそこに女の人がいなくても、たぶん彼らは意地を張る。それでも、ふとした時にこんなふうに漏れ出てしまう感傷を受け入れる心を持っているのだとしたら、共感しひそかな慰めを得るのだとしたら。それはなんて素敵なことだろう。
 2006年に発表された「エピゴーネン」で、田中氏は「言いたいことはいつも 二つ位しかないんだ」と歌う。片方が坂爪さんの好む方向性だとしたら、おそらくもう片方が、わたしの側だ。坂爪さんに倣って2曲だけ挙げるとすれば、それは「ランチェロ’58」と「Arma」になる。

届きそうな気になれたんだ 今
悲しそうなフリをしただけ
体の中の予感も ただ
照らし続ける太陽のそばへ
―「ランチェロ’58」 作詞:田中和将 作曲:亀井亨

 脈絡がないように思える言葉の連なりを、意味だけで捉えようとすると見失う歌と思う。ふっと力を抜いてメロディに身をゆだねた瞬間、雷に打たれたようにわかった。これは、なにかを見てしまった人の歌。音楽でも演劇でも小説でもいい、なにかをつくろうと思ったことのある人ならきっとわかる。その目で見れば光を失うかもしれない、それでもいいと「それ」を求めてしまった狂人の、歌。
 どうしようもなく惹かれるのは、きっとわたしが女だからなのだろう。
 坂爪さんは違う。おそらくは、ご自身の中に既にあるもので、焦がれるものではないから。
 男性である彼が反対に惹かれるのが、たとえば同性が内に秘める弱さや柔さだとしたら、普段、あれだけ強い言葉で人を引き付ける方がそんなふうに考えているとしたら。
 それは、とても、素敵なことと思う。

 それからいっぺんにいろいろなことがあったせいか、半月も経たないのに、坂爪さんとお話した日の記憶は驚くほど淡く遠い。けれど、おそらくそれは、坂爪さんご自身が夢のような人だから、ということにも関係がある。
 自分が見ているのが現実なのか夢なのか、当人にはけっしてわからない。自分が生きているのがこの世なのかあの世なのか、ほんとうは誰にもわからない。そんな不安とも安堵ともつかない気持ちを、坂爪さんを見ていると思い出すときがある。境界に生きる人、ではなくてご自身が境界なのではないかな、と思う。人の身でそうあることは、きっと、骨の折れることなのだろうけれど。
 そんな人が今また、大きな夢を見ようとしている。そう書くときっと、怒られてしまう。もう見てるんだ、もう叶えてるんだと言われてしまう。 
 単純なので、そうか、と思う。そうして口には出さないけれど、どっちでもいいんだよ、とも思う。こんなことまで書くと、ますます怒られてしまうけれど。
 あなたの夢が叶っても叶わなくても、ほんとうはどっちでもいい。
 ただ、今は少しだけ、あなたを見ていたい。
 あなたたちが行く先の、その先の景色を見たい。
 それが天国でも地獄でも。

 黄金色は、見たら目が潰れるかもしれない。
 それでも構わないと言ったら、坂爪さんは笑うだろうか。



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