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胡同の兎

 ――胡同(フートン)に白兎が出る。

 まことしやかに囁かれるようになって、一か月。
 得体のしれない『白兎(ホワイト・ラビット)』に迎えられ、行方をくらましたとみられる人間は数知れず。
 ある日、青白い貌(かお)をした朋友も、周囲の様子をうかがいながら私の耳元に口を寄せ、言った。
「気をつけなよ、亜梨子(ありす)。
 どんなに愛らしい姿をしていたとしても。
 白兎についていったら、……終いだよ」

 そんな彼も、数日後には行方知れずになった。
 白兎にたぶらかされたのなら、探しにいくべきか――。
 友の足跡をたどり、上下左右へ無限に伸びる胡同の路を、あてどなく彷徨う。
 無秩序に積みあげられた建造物の底辺路には、日の光など届きはしない。
 数日歩き通して、もはや、昼か夜かもわからない。
 ただただ黴臭く、湿気に満ちた空気をかきわけていると、コツリ、硬質な音が響いた。
「你好(ニーハオ)、愛らしいヒト。どこ行くの?」
 呼ぶ声に振りかえる。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、薄暗い路地のなかにあって、なお白く映る肌。
 次に、上等な絹の衣装を身にまとっている違和に、気づく。

 どこかの劇場か、娼館の客引き娘だろうか。
 ――ああ今は、金もなければ、時間もないというのに。
 どこへも。ただ、ヒト捜しをしていると伝えると、娘は紅い唇を艶然とゆがめた。
「なあんだ。貴方も、『兎の穴(ラビット・ホール)』を探しに来たヒト?」
 なんの話だ、と問うと。
「『天堂(パラダイス)』に逝きたいって。そういうヒト、最近ふえてるの」
 「こっちよ」と手招くなり、露わになった背を惜しげもなく見せつけるようにして、先を歩いていく。
 追いかける。

 左右に丸めた娘の黒髪。
 そこから流れるように伸びる後ろ髪が、歩くたびにゆらりと跳ねる。
 コツコツと、かかとを鳴らす音だけが胡同に響いて。
 ある扉に吸い込まれるように消えるのを、見失うまいと、駆けこむ。
 明滅する油灯に照らしだされた娘は、水烟(シーシャ)の煙管を手にしながら、言った。
「『兎の穴』へようこそ」
 ふうっと吹きつけられた煙から、甘ったるい香りが、部屋いっぱいに広がって。

 ――気をつけなよ、亜梨子。

 そう囁く朋友の声が、ふたたび脳裏によみがえったところで、私の意識は途切れた。
 とけて、きえた。

 了




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