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雑記3-1:断片2024-4

雑記シーズン2は記事を2本だけ書いて終わったわけだが、それでもシーズンの番号は1つ加算される。自分で作ったシステムだけど、なんか変な気分だ。

もともとやりたいと思っていたnoteの利用方法の一つとして、一つのトピックについて多く語らず、トピックを多数縦に積み重ねるというものがあったことを思い出した。今は忙しく一つのトピックについて話しきれないこと、そういう話しきれないままになったトピックが多数あることから、今やるべきなのだろうと思う。以下断片



「こう読んでほしい」ことが明確な文章は、「どう読んでくれても良い」とする文章よりも質量がある。後者は開かれたメッセージであり、野原に置かれたキャプションの無いオブジェクトに近いが、前者は読む人を(それが特定でも、不特定でも、一人でも、多数でも)自動的に検知する、言うならばタレットのようなもので、ある程度の確率で弾の口径は大砲並みに大きい。自分のようにコンテンツの消化速度が遅い人間は、勇気を持って受け止めることになる。そうでなければアンフェアになる。


個人のゲーム制作者が店じまいをするところを見た。
「今買ってくれなければもう続けられません」に手を差し伸べる人はいなくはなく、少なくもないと信じたいが、「もう続けられなくなってしまったので買ってください」に手を差し伸べる人は驚くほど多い。どうして死んでしまった後に手向ける花は気軽に買えるのに、死ぬ前にパンを買って渡すことはこんなにも難しいのだろう。花を買って手向けることが悪いとは全く思わず、それもまた一つの善行に分類できる行動だから、あの墓前に花が増えていくこと自体は喜ばしいのだけど。
花はいくつあっても良く、同時に目標数は無いのでいくつ無くてもいいので、一つから手向けることが出来るし、一度手向けたらもう手向けなくても良いことが多い。パンは生きるために○○○○kcalを取らなければならないラインがあるので、一つでは足りないし、本当に救うのであれば何度も渡さなくてはならない。弔うことが軽い気持ちで行える行為だとは言わないが、救うよりずっと簡単なんじゃないかと思わずにいられないし、きっとそうなのだと思う。一人の手で救える範囲はあまりにも小さい。


胃壁が溶けているのではという痛みを感じながら横たわり、自分に向かって「大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫」と呼びかける22:40
胸がぺしゃんこになるような気がして、しかし太っているのでそんなことにはならず、代わりに体が上から押しつぶされるような そういう
体が内側に向かって収縮するような感覚は肉体を越えて発生するのに、ふと目をやった瞬間に自分の体の大きさがもとに戻ってしまい、もう一度収縮することになる 収縮出来ないから収縮の感覚を味わい続けるのだろうと思うと、PORTALで天井と床にポータルを繋げて無限落下する人の気持ちに思いを馳せることが出来たりする。


思考が後から来たものに押し出される現象に苦しんでいるが、苦しみも後から来たものに押し出されていく。鳥頭であることを自覚してしまった鳥ってこんな感じなのかもなぁ。


相手を懺悔室のシスターにしてしまいたくないという話を、ずっと誰かにしているような気がするけれど、結局誰にもしていなかった気もする。相手を懺悔室のシスターに、したくないんですよ。本当に。残念ながら失敗して相手をシスターや神父にしてしまうこともあるし、そもそも懺悔室に誰もいないことも多いが、一番多いのは懺悔室の反対側に俺が入っていること。人件費が発生しない最底辺の感情労働。自分の家でやれよ。自分の家だったわ。


いろんなことが難しくて困ってしまう。どうしてもどうしても。今年度も頑張っていこう、よろしくお願いします。

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