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雑記⑤:いつの間にか脳内に誰もいなくなっていた話

数年前、もっと言えば、僕がまだ「まともな人間ルート」に近かったころ、自分の行動を律するために、尊敬する知人を頭の中に何人か住まわせていた。
何かから逃げようとするとき、逃げ出さずに向き合っている脳内の知人を見て、「脳内○○さんは今この時も頑張っているんだから、もうちょっとだけ頑張るか~」みたいな思考を中学生のころからしていたので、もう習慣というか、ほぼ染み付いていた。染み付いていたはずだった。

先日、ふと思い出して頭の中を探ってみると、住んでいた脳内の知人は一人残らずいなくなっていた。


今年は、こういう「昔はこうだったけど、いつのまにか変わったな」に気づくことが多い。それは精神が少しうわむきになり、周りと自分が少し見えるようになったからだと思われるので、基本的には良いことなのだけど、時折寂しい気持ちになる。過去の自分と今の自分は、どうしようもなく物理的に/社会的に地続きだが、内面的には大きな断絶がある。
この断絶が埋まることは(過去のことなので)ない。今後出来る可能性があることといえば、せいぜいこの断絶に意味を持たせる程度で、それも今のところ上手くいっていない。無理やりに意味づけしたところで、自分自身が納得できないのであれば意味がなく、自分が納得できる意味づけは現状できる気がしない。誰よりも自分自身こそが、自分の悪いところを余すところなく知っている。くすみきった日々を後付けで彩るのは、全くもって難しい。

思いつく解決策としては、現在の自分が彩りの多い人間になって、「色々あったけど、今が良いから、まぁいいや」と思えるようになることだが、こちらも上手くいっていない。本当に、難しい。


それでも、悪い気づきしかないわけではなかった。
今年に入って、いつからか「視界が広いな」と感じるようになった。数年前までは顔を上げて歩くことすら出来ず、普段顔を下に向けながら歩いていたのだけれど、気づけば少し上を向きながら歩くことが増えていた。厚顔無恥になっただけなので手放しで喜ぶべき話でもないかもしれないが、自分の靴を眺め続ける日々に比べれば、面白いものを見つける機会が明確に増えている。個人的には、これは「良かった」に分類しておきたい。


幸福なことに、僕の周りにはまだ友人がいる。それは親友と呼ぶにはおこがましく、いつ消えてしまってもおかしくない関係性だけれど、まだ友人と呼べる人たちがいてくれている。
脳内で友人に会えなくなってしまった今、さらに現実の友人との時間やコミュニケーションを大事にしていこうと思う。よろしくお願いします。



なんとなく今の気持ちに近いカメラロールの写真

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