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雑記⑧:「誰でも見ることが出来るけれど、誰も見ない場所」の話

もうひとつ書き損ねたことがあったので、驚きの2日連続投稿となった。


SNSを使っていると、「裏アカウント」や「縮小アカウント」という概念に触れるだろう。「より仲の良い人々だけに向けて発信したい」だったり「公開アカウントでは発言できないような過激なことを言いたい」だったり、まぁいくつか作成理由はあるだろうが、どれも直感的に分かるものだと思う。
一般的なそういうアカウントには鍵がかかっていて(非公開になっていて)、オーナーが承認した特定の多数に向けての発信が行われる。フォローの申請を送った人はオーナーの発信を見たいと思っているし、オーナーは申請を通した人々に自分の発信を見てほしいと思っている。よく出来た閉じた空間だ。


僕はTwitterを始めてからの12年で、鍵のかかっていない知人の裏アカウントを2度発見したことがある。

フォローは数十、いずれも知り合いではない。災害速報や神絵師のアカウントなど、ざっくり言えば「フォロワー数の多いアカウント」をフォローしていた。
そしてどちらも、フォロワーは0。誰からも見られていないアカウントだった。

ツイートの内容の多くは、内省的なものだった。片方は特に、人が自らに刃を向けるとき特有の鋭さをもって、自分の状況を露悪的に綴っていた。

このアカウントが作られた理由はおおむね分かる。「表のアカウントで流せないことをつぶやきたいから」だろう。
このアカウントが鍵アカウントではない理由は、少々難しい。なんとなくこうであろうというものはあるが、「分かる」と言ってしまうことに怖れがある。そのため、ここからは自分ひとりの経験に基づく勝手な憶測であることをよくよく承知してほしい。

過激なことを言いたいのなら、鍵をかければ見つかることはない。
にもかかわらず鍵をかけずにいるのは、誰かに見つけてほしかった、誰かに見られたかったんじゃないだろうか。自分の素性を知らない何者か、もしくは、自分の素性を知っていて、かつこれが自分だと認識してくれるほどの興味を持っている人間に、もしくは、誰々と定めない世界そのものに、見られたくて仕方なかったんじゃないだろうか。

そういう時に必要なのは、「誰でも見ることが出来るけれど、誰も見ない」という性質を持った、細い路地裏のような場所だ。誰が見ていても良いけれど、誰も見ていなくても良い。ただ外に向かって開かれていることが、チラシの裏の閉塞感を打ち破るためにどうしても必要なんだと思う。
自分の内面を他人に向かって吐露するとき、他人にも重みの一端を背負わせてしまうことがある。背負わせてしまうことを恐れて吐露できなくなる人もいる。それでも一人では重さを支えきれなくなったとき、知人の代わりに世界に重さを背負ってもらうために、誰でもない誰かに向かって開かれた路地裏が作り出されるのだろう。


察されていると思うけれど、このnoteはまさに"開かれた裏アカウント"だ。
このnoteのURLを教えたリアルの友人は1人しかいない。このnoteの存在を知っている友人も2人しかいない。このnoteは、知人に向かって書かれていない。

noteを始めた理由は、名目上「文章を書く練習」だったが、本質的には自分が考えてること・思ったことを"誰かに見える形で"書き残しておくことに他ならない。
これをここまで読んでくれた奇特な人、あなたが誰であるかは知らないけれど、もし良ければまた気が向いたときに僕の抱えている重さに付き合ってくれると助かります。

終わり。


これは劇場などにある二重扉の間にある空間で撮った写真。誰でも見ることが出来るけれど、誰も見ない場所の例。

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