インパール作戦の生き残り

 インドを植民地としていたイギリスと、ビルマまで占領した日本が国境付近で激突した。日本はインドも手中に収めるべく、インドとビルマの国境地帯にあるインパールという小さな町を包囲する作戦が開始された。昭和19(1944)年3月のことである。
 ビルマ北西部、インド国境の近くを流れる大河チンドウィン河を渡った後、標高2千メートル級の峻険な山々の連なるジャングルを補給らしい補給なしで進撃していくという無謀な作戦であった。6月、雨期に入ると完全に補給が途絶えてしまう。ジャングルの中を進撃していた日本兵は飢えと病気、空軍の支援を受けたイギリス軍の反撃によって、劣勢に陥り、翌7月には撤退を余儀なくされる。この戦いによって日本軍約8万6000人のうち、戦死・戦病死者の数は約3万人にのぼった。
 太平洋戦争の中でも最も悲惨な戦いの一つであり、陸軍の無謀な作戦の代名詞ともいえる象徴的な戦いであった。野崎さんのお兄さんはそのような戦いに参加していたのだ。次に書くのは、僕が野崎敏夫さんご本人から直接聞いた体験談である。


「中国には1年半いました。江陰(上海から西北西の方角に約140キロの地点)の基地で警備をしていました。匪賊がたくさんいたので1週間に1回ぐらいは交戦がありました。手紙を出したのはその頃です。もちろん場所は書けません」
 まさに泥沼化していた大陸戦線の渦中に敏夫さんは一年半もの間、滞在していたのである。そしてさらに厳しい戦場へと転戦させられることになる。
「転戦の指令があり上海から船に乗りました。13隻の輸送船(平たい川船)。駆逐艦、飛行機が先導し護衛しました。行き先は告げられていませんでした。
 船は南へ向かっているようでした。台湾海峡近くのぼう湖島から先は全滅しないよう、船団はわざとバラけ、1週間ほどかかって到着したのはベトナムのサイゴンでした。
 そこからは引き続き、船で川をさかのぼっていきます。途中からは汽車に乗り換えて、シャム(現在のタイ)を移動します。首都のバンコク、北上してチェンマイです。
 チェンマイから先は鉄道がありません。ビルマのマンダレーまではジャングルの中を徒歩で、道路を作りながら行軍しました。炎天下ですから暑くてきつかったですが日本が占領していたので安全な道中でした。マンダレーでは城壁の中に物資を運び込みました。行き先ですか?南の警備に行くとだけ伝えられていました」
 いままで行ったことがない南国の地にやってきたのだから、すこしぐらい胸をときめかせてもいいようなものだが、敏夫さんの話にはそうした話は一切なかった。戦いに来たために景色を眺める余裕すらなかった、ということなのか。それともその後体験する惨状の印象が強すぎて忘れてしまったのか。それとももともと景色や季候といったものには興味がないということなのだろうか。
 さて、話を続けよう。野崎敏夫さんが所属したのは第15師団67連隊第2大隊第7中隊で通称「祭」部隊であった。部隊ごとに分かれて、イギリス軍が駐留しているインパールを取り囲むために、ビルマとインド国境の道なき道を行軍する。ジャングルに覆われているので、どこを歩いているのかわからない。兵站が伸びきっているので補給はない。飲まず食わずで歩き続けるしかなかった。
 インパール付近に到着した「祭」部隊は攻撃を開始する。戦車100台とともに攻撃を仕掛けるはずだったが、錆びて穴があき使い物にならず、敏夫さんたちは丸腰に近い白兵戦を強いられてしまう。
 日本軍の接近を察知していたのか、イギリス軍に返り討ちにされる。
「向こうが気がつかんうちに日本軍が包囲して奇襲したつもりが、バンバンと撃たれた。英国軍は戦車と飛行機で攻めてくる。匍匐(ほふく)前進をすると腰から下げている雑嚢が敵の銃撃によってたちまちボロボロになりました」
 あまりの劣勢に撤退命令が出される。そのころ、雨期は最盛期となっていた。食べ物は尽き、兵たちは栄養失調にかかってしまう。マラリアや赤痢といった病気にかかる者が続出する。そのような状態で、敏夫さんたちは死の退却を続けることになる。
「ゴーという敵戦車の音が聞こえましたが、ジャングルなので自分たちがどこにいるのか判りません。昼寝て、陣地を築いて逃げて、陣地を築いて攻撃した。逃げたかったが逃げたら味方にやられる。部隊が飛び石で交互に退却したんです。機関銃しか持っていなかったのですが、イギリス軍が怖がって逃げていくこともありましたね」
 もちろん形勢は逆転しない。追い詰められた日本軍は次々に兵力を落としていく。落後した兵の中には手榴弾で自決する者、虎に食われる者、イギリス軍にガソリンで火をつけられる者と悲惨な末路をたどる者が多かった。
「気がついたらみな全滅です。蠅が覆っていて真っ黒になっているんですが、しばらくすると骨と軍服だけになった。産み付けられたウジが味方の兵士を食ってしまったんです。鉄砲は原住民に持ち去さられていました。まったくみじめなもんでしたね。
 味方の白骨は退却の道標になりました。インパールに近づくにしろ、退却するにしろ、実際に通っていたんですから。味方同士、まとまって退却すると目立ってしまい、敵軍の攻撃を受ける可能性があります。だから退却はそれぞれ少人数です。
 その道中、まわりで戦友が死ぬのは当たり前でした。敵の攻撃のほかには栄養失調で衰弱したり、マラリアにかかったりして、バタバタと亡くなっていきました。ジャングルの中を這い回り、骸骨が転がる中、逃げ惑う。補給はない。どこにいるのかまったくわかりません。
 連隊旗の護衛は本来であれば、階級が上の人間がやるのですが、みな死んでいたので私がやりました。逃げる途中、村があると軍票で食料を買ってインパールのそばからマンダレーまで行きました。川が広がると筏に銃器を積み、自分たちは泳いで渡りました。中にはワニがうようよと潜んでいる川もありましたが、やはり泳いで渡るしかありませんでした。結局、私たちが最後の撤退でした。友軍の基地にたどり着いたとき、私たちは痩せ細っていました。骨と皮しかないような状態でした」
 まるで昨日のことのように65年(インタビュー当時)も昔のことを詳細に語った。忘れがたい鮮烈な出来事だったからなのだろう。だが語れるかどうかというのは覚えていることと話は別である。陰惨な出来事であるがゆえに黙して語らず、という態度を死ぬまで貫く人も多いのだ。応召する前、そして戦後と彼は学校で教師として働いている。教育者としての自負が、自らの経験を後世に伝えねばならない、という確信に敏夫さんを至らせたのではないだろうか。そんな気がする。
 彼の部隊の被害状況はどうだったのか。
「200人の中隊は壊滅、私を含め4人だけが生き残ったんです。後の者は戦闘で亡くなったり、飢えで衰弱したり、病気にかかったりして亡くなったりしてしまいました」
 たった4人の生き残りとして、語ることを自らの使命として課していたのだろうか。どうもそういう気がしてならない。

(拙著「〈日本國〉から来た日本人」(春秋社刊)(2013)より抜粋。)


野崎敏夫さんは戦後、郷里の福井県で教員として働き、最後は校長として活躍。僕が話しを伺った2011年?ののち、スマホを見ながら運転していた男にはねられ、以後、意識不明となってしまった。

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