『建築文学傑作選』を読んで



○文学作品にみる建築的構成

 自分が思っていたより前に、青木淳の『建築文学傑作選』を読んでいました。ちょうどその年、大学3年編入直後の七夕に、新潟県にある潟博物館での青木淳さんの講演会があり、そこでの質疑も含めた内容です。

 感想を読み返してみると、悠長で言葉が硬く、読みづらい  笑

 読んで感想を下さった方々には感謝です。

 でも、この本から学んだ〔恣意性の排除〕の扱い方は、その後1年半ほど悩み続ける内容・それを乗り越えてこれから発展させる内容の基準点になっています。また、〔建築的構成〕を建築意外に見出す姿勢にとても感銘を受け、自分の観察力が1つ上の段にあがったきっかけの本でもあります。

もしよろしければ、ご一読下さい。


○Facebook への投稿 (2017/08/09)



青木淳 「建築文学傑作選」読了。
総じて、建築とは、生活の中の生々しい、不連続で予測のつかないものの連続である事が主張される。そのため、建築には中心は無く、目的となるような存在ではない。そこに浮き出てくる精神的な自由さを、青木は原っぱと表現している。
解説のパートで、青木が主張しているような、恣意性を排除する設計手法が詳細に説明されるような印象を受ける。この手法は、「原っぱと遊園地」シリーズで語られる、設計における「形かナカミか」の議論を超える試みだけで無く、上記の自由さを実現する手法でありそうである。
つまり、恣意性の排除が、生活の中の、生々しい不連続の連続をそのままの姿として受け止め、それをある豊かな状態に変化させる事に繋がるのである。
その豊かな状態とは、施主から求められるものだけでない様に思うが、それは何だろう。

そういえば、その豊かな状態とは何なのか、考えた事が以前までなかった様に思う。
最近個人的に何だろうと、手掛かりない所を探す感覚だったのは、青木の著書でここが特に拘って明らかにされていなかったからかもしれない。また読み返してみなければ。

「ヴェネツィアの悲しみ」でこの本における、選択基準をなんとなく、自分なりに把握した。ようは文章構成が、上記の様な、生々しい不連続の連続であるかどうかである。
「流亡記」「中隊長」「蠟燭」「ふるさと以外のことは知らない」「蜃気楼」「台所のおと」では、語りの視点に青木の注目が置かれる。それによって、それぞれの文章の世界観、はっきりと区切られない文章の連続である構成が明らかにされる。
「日は階段なり」は正直よく分からなかった。
「長崎紀行」では、生活の中の生々しさを、文字通りそのままに書かれたもので、偶然、主人公の孤独な迷いと苦しみが、少し前までの自分と重なる部分もあり、楽しめる部分もあった。

青木の建築に対する思想には共感する点が本当に多い。自分の思想はまだまだわからないが、青木の思想が、今最も建築の核心をついているように思う。また、その思想に近いと感じるのが、今の所、藤本壮介と乾久美子である。
藤本は、(少し前までの話だが)生活を不連続なものの連続であると捉えている点が似ている。しかし、青木と異なる点は、藤本はある二項の間にその不連続を見出そうとしていた点のように思う。その点で、青木の不連続なものの感覚の方がリアリティがあり、核心に近いように感じている。
一方乾は、まだ著書を拝読した事がないし思想を聞いた事もないため、ちらちらとみた自己紹介文でしか知らない。が、「部分と全体」をキーワードに挙げている点に、現在興味を惹かれている。近いうちに拝読する予定だ。

それにしてもこの本は面白かった。
ただ一昔前の文学は、品詞の活用が現在と異なる点が多々みられ、純文学初心者の僕にはまだまだ読みこなせなかった。しかし、青木の解説付だと世界が(青木の解釈ではあるが)視えた。これを自分の解釈をもって読みこなせるようになると、自分の世界観が構築されつつある事の証明になるのだろうきっと。

最近の僕の関心は、いかに不連続な状態を発見し、それを繋ぎ合わせ、いかに現実味を帯びた豊かな状態に変化させる事が出来るかという点である。
繋ぎ合わせる手法に恣意性が介在すると、それはエゴになるように思う。また、現実味を帯びた豊かな状態は客観的なものである必要がある反面、よくある誰もがそうだねと言うようなものだけに陥りがちである。それでは面白くない、ただ最低限だけ心地よい空間になってしまうと思っている。がしかし、その豊かな状態があまりにも建築家視点、作り手視点でのみの豊かさなら、これもエゴになってしまうように思う。その発見に最近は目を凝らすよう普段から意識している。

そういえば先月、新潟にて青木氏にお会いし、直接質問ができる何とも贅沢な機会を得た。そこで僕は、青木淳建築計画事務所の設計のビュー福島潟における恣意性について、現在思っている事を直接聞く事ができた。氏曰く、設計した20年前当時は、恣意的に決定した部分も、改めて見返すとどこまでが恣意的でどこからが違うのか、見ただけでは判断がつかないため、当時の恣意を許容した判断は悪いとは言えない、との事だった。

えーー

と思ったが、とても興味深かった。
ここで、設計手法が揺らぐ。しかし、(これは僕の意見だが)現実味を帯びた豊かな状態が実現されていないわけでも、まして邪魔されているわけでもない。だがしかしやはり恣意的ではある。

ここで豊かな状態とは何かという点が揺らぐ。
それは一概に決められるものではないように思う。この辺でこの話は途切れるのだろうか。

最後に、最近は上記のことを踏まえ、「意識的に」設計できているように思う。この点は3年次「けやきの家」、4年第一課題で、当時は理解せずに高評価を頂いた経験、4年第二課題〜卒業設計までの上手くいかない、悶々とした経験を経て、自覚的に変化させたものである。表現はまだまだであるが。そこが凄く楽しい。まだまだ学ぶ先があり、もっと知見を広げ、楽しみたい。



参考文献:青木淳「建築文学傑作選」, 講談社文芸文庫, 2017

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