『建築が生まれるとき』を読み返して

○青木淳/平田晃久/藤本壮介 にみる〔恣意性の排除〕

 403architecture[dajiba] の橋本健史の、青木淳/平田晃久 論考 を拝読して、大学3年当時、すでに拝読していた藤本壮介『建築が生まれるとき』を読み返し、関連付けて、さらなる〔恣意性の排除〕の扱い方を発展させようとしました。その時の Facebook への投稿です。

 投稿では話がぷつんと切れますが、当時それ以上何も思いつかなかったためです。しかし、そこから全ての発想に対してこの考えが根幹になっています。

 これは下記事での考えを踏まえたものですので、よく分からない感覚・言葉が出てきましたら、こちらをご参照下さい。

○Facebookの投稿 (2017/09/03)


「藤本壮介「建築が生まれるとき」を読み返す。
明らかに藤本は青木の思想に影響を受けているように思う。しかし、著書の中では「恣意性の排除」「部分による建築」を念頭に置きながらも、「曖昧な空間をもつ建築」というキーワードをキープし続ける。これは恐らく、藤本が関係性によって成り立つ「堪能する」建築と、人以外の、壁などの物質同士や、それらが作るボリューム同士の関係で生まれる「居場所」が重要であると考えているからであろう。

しかし、個人的にはこの「居場所」にリアルな感じがする時もあればしない時もあるのである。
それはきっと、藤本が全体を俯瞰する視点で、部分についての話をしているからだと感じる。部分の説明に話を振り切らず、全体を見ている様子を感じさせるのである。

この本の中で、建物の平面系をベースにしたダイアグラムが多用されている事からもそれが伺える。語り口からも。

House N の説明からは、青木からは感じない違和感を感じた。それはきっと、藤本が「物質 または 物質の関係によるボリューム」の関係性を主題にし、またこれは「人間が居ようが居まいが実は変わらない」。この2つが原因で、部分の中で体感するシーンの関係(連なり・暴走)から構想したものとは明らかに違う印象を与えているのであろう。

この当時藤本はきっと、「曖昧」と「部分の関係」「恣意性の排除」が上手く一体となっておらず、一体となる時を良いものとすると、上手く行っていなかったと言えるだろう。

House N は「物質のつくるボリューム同士の関係性」に曖昧さを生み出す試みをしている。そしてその試みで出来た空間に人間が後から登場する。森の原理を建築に落とし込んだと言うならこれは正しい順序をとった手法なのだろう。

これに対して、個人的にはリアリティの欠如を感じる。生々しくはない。
素晴らしい建築ではある。そこにいて面白く、豊かな生活の送れる空間の質であると思う。

しかし、やはりリアリティは無い。

森に住んでいる人には生々しいのかもしれない。その視点でいうと、
「その人の生まれ育ち生活してきた環境に近いもの」

「生々しい建築」
となる。なってしまうと言うべきな気がする。」



参考文献:藤本壮介「建築が生まれるとき」, 王国社, 2010


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