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スリランカで軟骨ピアスをあけた話

前回、初めてスリランカでピアスをあけた時には「今度ピアスをあける時は絶対日本であける!」と決心していた。それなのに、私は2回目のピアッシングもスリランカでやってしまった。人間って本当に懲りない生き物だと思う。

なんでわざわざ2度目のピアッシングもスリランカで行ってしまったかというと、いくつか理由がある。

①ちゃんと消毒してくれる+ファーストピアスがニッケルフリーのものを使ってくれるお店を見つけたから
②軟骨ピアスをあけるとなると、もはや今のタイミングでピアッシングするしかなかったから

軟骨ピアスは耳たぶに比べて、穴が完全に安定するには1~2年ほど掛かると言われている。さらに、日本帰国後にどんな職場に就職するのかも分からない現状を踏まえると、日本帰国まで1年ちょっとある今のタイミングでピアッシングしてしまえば、帰国時には恐らく穴も安定して、職場の関係で外す必要があっても、何も後悔なく外せると思ったからだ。

そして、今回はピアッシングしたのはワンゴールフェイスモールにある「MrPierce」というお店。

駐在で来ている職員の娘さんもよくここでピアスをあけているそうで、試しにピアスをあけたい友人の付き添いで私もそこに足を運んだ。
さすがピアスとタトゥーのお店と謳っているだけあって、ピアスガンを使った耳たぶのピアッシングも10秒ぐらいで終わった。使用するファーストピアスもちゃんとニッケルフリーだし、あける前にはちゃんと耳たぶも消毒してくれるし、何よりピアッシングに手慣れている感じがあって、安心した。

実際、私の初ピアッシングはビゥーティーミスの知り合いのサロンでインターンの子が手を震わせながらやったものだったので、それを考えれば、ワンゴールフェイスモールのお店の方がまだ安心できると思えたのだ。

値段もピアスガンでのピアッシングなら両耳3000ルピー、ニードルを使ったピアッシングなら1か所5000ルピーなので、出来る限りの安心を買うと考えれば、そこまで高くはない。
スリランカでピアッシングをする上で、考えられる不安要素をほぼ無くしてくれているお店を見つけたこともあり、私の中で「2個目あけてみるのも、アリだなぁ」と思うようになった。

実際に耳たぶ部分に2連でピアスがあいているのも、オシャレで素敵だと思っていたので、左耳1カ所ぐらいで挑戦してみようと思っていた。しかし、そうやって情報収集していくと、ヘリックス(耳のふちあたりの部分)にも興味が出てきてしまい、気付けば軟骨ピアスをスリランカであけるか、否か、と考えるようになっていた。(ピアスの位置の名称についてはこちら

とは言え、興味を持ってしまえば気持ちを抑えることが出来なくなってしまうのが私の悪い所でもあり、最初は友達とあけに行こうと言っていたにも関わらず、最終的には1人でピアス屋さんに乗り込んでいた。

最初は左耳の耳たぶ1つ、ヘリックス1つをあける予定だった。しかし、耳たぶは片耳でも両耳でも同じ3000ルピーらしく、私は「値段同じでも左耳だけでいい」と言ったが、お店のお兄さんのゴリ押しもあって結局両耳あけた。
さらに、最初はヘリックスのつもりだったが、私の耳の形ではアンテナヘリックスのようになってしまうため、お兄さんとワチャワチャ言いながらアウターコンクにあけることになった。

耳たぶは、以前友人のピアッシングを見ていた通り、ものの30秒ほどで終わった。その後、アウターコンクはニードルであけることもあって、奥の部屋に案内され、そこであけてもらった。ニードルでピアッシングをする時は耳たぶの時以上に入念に耳の裏表を消毒され、ファーストピアスとして刺してもらうピアスもしっかりアルコールで消毒されていた。さらに、「今から使うニードルのシリアルナンバーはこれだよ」と見せてもらい、中からしっかり梱包された様子のニードルが出てきた。ここまで来て言うセリフでもないが、「わりとちゃんとした所で良かった」と安心した。
そのまま、スムーズにアウターコンクもあけてもらい、終わった後に「3か月はプールに入らないでね」「4か月は外さないでね」「裏側に抗生剤を塗ってね」「水できれいに洗ってね」等の諸注意を聞いて、お店を後にした。

お店を出た後は、本当にあけたのか実感が分からず、何度もトイレに行ってはアウターコンクに輝くピアスの存在を確かめた。見るたびに「うっひょー」と内心驚きつつも、徐々にジンジンと痛みを感じるようになる。耳たぶ分は殆ど無痛だったことを踏まえると、これが軟骨に穴をあけると言うことか…と改めて軟骨ピアスの重みを感じていた。

アウターコンクがジンジンと痛む様子も数日で収まり、今はほとんど何もない感覚で日常生活を送っている。しかし、軟骨ピアスをあけてみて、改めてけっこうチャレンジングなことしてるなぁ…と思うようになった。
思えば、古民家暮らしでも、スリランカ暮らしでも、だいたい事を起こしてから、事の重大さに気付く感じが、自分自身のよくあるパターンになってしまっている。バカっぽいと言えばその通りなのだが、それが良いか悪いかは、あまり考えても意味がないので、考えないことにする。(たぶん色々考えても、このパターンは治らない)

そう言えば、最近読んだ千葉雅也の「センスの哲学」で「個性とは、何かを反復してしまうこと(P162)」「問題とは、繰り返し浮上してくるもの、反復するもの(P160)」と書かれていた。
改めて冷静に考えてみれば、それは疑いようのない指摘だし、「仏の顔も三度まで」や「二度あることは三度ある」のように違う言葉でも表現されている。

それを通して考えるのであれば、やってみて事の重大性に気付く、私の良いのか悪いのかよく分からないパターンも、ちゃんと自分の個性として認めてあげないといけないのかもしれない。

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