存在として認めてくれる嬉しさ
いつもサリーのジャケットを仕立てくれるお店で、いつものように注文したサリーを受け取った。その時に、サリーと一緒に持ち込んだショッピング袋にボールペンで「හරුක」と私の名前が書き込まれていた。
仕立て屋の人からしたら、なんてこともない、単純に誰が誰のものか分かるようにする為に書いたものなんだと思う。それでも私にとっては、その名前を書くという行為が、ちゃんと私を認識して、1人のお客さんとして、ちゃんと扱ってくれようとしたんだなと思えて、妙に嬉しくなった。
もうスリランカに来て11ヶ月。まもなく1年となろうとしている時期だけども、いつまで経っても私はスリランカ人にとっては外国人だし、どこまでいっても私は「ピタ(外)」の人間であることは変わらないんだと思う。だからこそ、彼らにとってピタである私はお店に行ってボッタクられそうになったり、多少雑に扱われることなんて日常茶飯事だったし、正直そういうことにも慣れてしまった。
私自身もそれを前提に生活しているからこそ、職場の同僚に「あなたはアピ(私達)なんだからね」と言われたり、お店で1人のお客さんとして扱ってもらえることが、いつまで経っても嬉しいものなんだと思う。
正直、ピタがダメでアピが良いっていう問題でもない。私が外国人だからこそ、私に対して現地人の間で配慮されてることだってあると思うし、サリーを着れば異常に喜ばれる。ちょっとシンハラ語を喋れば、もうお祭りかのようにニコニコしてはしゃぎ出す。(そしてすぐに「日本の仕事を紹介して」って言われる)
自分が外国人だからこそ得したなって思う時もあれば、外国人だからこその扱いだなった思う時もある。でも、正直これで良いんだと思う。
現実的に全部が全部いいとこ取り出来ないのも事実だし、本当にそんなことしようもんなら、正真正銘のテイカーになってしまう。
スリランカの人達は、人の繋がりとか関係性とか、そういうお金じゃない考え方で生きている人達でもあるからこそ、それにタダ乗りして、良いところだけ貰おうとするのは、やはり姿勢として良くないと私は思うようになった。
これは知り合いが言ってた事なんだけど、コミュニティは困った時の損害保険ではなく、普段からの繋がり合いや助け合いといった相互関係によるものなんだと指摘していた。
確かに、日本ほどコミュニティ感が薄れて、ある意味何でもお金で解決出来てしまう世の中になると、絶えず相互関係を求められるコミュニティは時として厄介なものになってしまうのだろう。しかし、スリランカに来てバリバリのスリランカコミュニケーションに揉まれたからこそ、相互関係って言葉が私もピンと来るようになったのだと思う。
スリランカでの生活は正直面倒なことばかりだ。雨が降れば道は冠水するし、壁にもシミが出来てきて、洗濯物も全然乾かない。ベランダには蜂の巣っぽいものも出来るし、部屋では小さいヤモリが常に巡回業務をしている。
色んな人から電話は掛かってくるし、皆すぐに自分の家に招待したがる。(そのわりには招待した日を自分で忘れてるというオチ)授業をやろうと思えばフットボールを始めたり、「雨だから今日は行かなかったー」と言われる。(高等遊民か)
こんな感じで、スリランカ生活での面倒くさいポイントなんて上げたらキリがないのだが、その面倒くささで支えられている関係性があるのも事実だ。
色々、長く話をしてしまったけど
今まで「外国人だから雑に扱っていいと思ってるんだ!けしからん!」とか「日本人だからって色々面倒なことを言ってきて!けしからん!」とか、まぁ私も沢山メラメラしてた時期があった…(笑)
でも、最近はいい意味で色んなことを「そういうもん」として受け入れることが出来るようになってきたこともあり、角が取れたというか、洗練された気がしている。(たまにメラメラ燃えちゃうけど)
何というか、極端な何かではなく、良い面も悪い面も両方を1つの事象として受け入れることが出来るようになった気がしたのは、私がスリランカ生活をしてきた中でも成長したことの1つなのかもしれない。
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