スタバの年の終わりとはじまり
人間の「こうじゃなきゃならない」という思い込みは、こうも簡単に崩れてしまうのか。2020年に、自分自身の軽薄な態度でそのことを知った。
スタバの年が始まったいきさつから、話をはじめよう。2018年から2019年は、確かにスタバの年と言ってよいものだった。
家で仕事をしていると、昼食後はどうしてもダラけてくる。3年前に地元金沢市の中心部へ引っ越したことで、スタバが歩いて10分とごく近い存在になった。そのためダラけてくると、「ちょっとスタバまで行ってみようか」と思う日が多くなった。歩いて10分程度のスターバックスまでの移動は、ちょうど良い気分転換になったのだ。
そうして、いつしか平日はほぼ毎日、足を運ぶようになった。チャージしたスターバックスカードが、一週間も経たずなくなるほどだった。
毎日スタバへ行くとどうなるか。店員さんから顔を覚えられる。注文もだいたい同じなので、レジで「今日もソイラテですか」と先回りして聞かれる。スタバは使い捨ての紙カップかマグカップかを選べるが、その選択も覚えてくれる。
一度、マグカップで頼むのを忘れてしまって、紙カップに淹れてもらった後、「あれ、いつもマグカップでしたよね?」と気づいて淹れ直してくれたことがあった。もちろん「そのままでいいですよ」と言ったのだけど、顔馴染みの店員さんは笑顔でその言葉を受け流し、マグカップを手渡してくれた。このとき、スタバ愛が高まったのは言うまでもない。
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毎日、スタバへ行くと座る場所もだいたい同じになる。平日の午後2時ごろはそれほど混雑していないから、ほぼ座りたい席に座れる。これが夕方4時ごろだと高校生の自習室と化すため、席の確保は困難となる。だからスタバへ行く時間も午後2時と定着していた。
席に着いてから、まずはふわふわのラテに口をつける。飲みながら、ゆっくりと周りを見渡す。
会話している人たちがいたり、1人で黙々と本を読んでいる人がいたりする。それら店内の光景を眺めたあと、リュックからパソコンを取り出す。ラテをちびちび飲み終わるまでの1時間、仕事をしたり、書き物をしたりするのが日常だった。
2018年から2019年の2年間は、まさに「スタバの年」と名づけて良い。歯を磨かないでベッドに入ると気持ち悪さを感じるように、平日午後2時に近所のスタバへ行かないと、なんだか落ち着かない気分になった。
「死ぬまでのあいだ、ラテの500円ばかりのお金を毎日払い続けるのだろう」そう本気で思っていた。2020年の春が来るまでは。
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2020年4月13日、新型ウイルスの影響により、住んでいる石川県に緊急事態宣言が出された。行政から不要不急の外出を控えるよう要請されたのだ。その状態は、解除される5月6日まで続いた。その日を境に、日常は一変してしまった。
ゴールデンウィークの街の様子を、今でもありありと覚えている。人影というのものがまるで見当たらず、今にも物陰からゾンビが出てきそうな気がした。街の中心部のどこを歩いても、まるでゴーストタウンのようだったのだ。
金沢市は観光都市である。連休中には例年、県外から大勢のひとが訪れ、施設や街の飲食店が活気づく。それが、本当に人っ子ひとりいなくなってしまった。我がスターバックスも、同じように営業を停止した。
かくして2020年の春をもって、スタバの年は終わりを告げた。スタバの近くに越してきてスタバの年がはじまったように、スタバの営業停止とともにスタバの年はあっけなく終わりを告げたのだ。
それまでスタバ通いは、生活の一部になっていた。突如いけなくなって「一体、自分の生活はどうなるのだろう」と思ったが、自分でも意外なほどその状況を素直に受け入れていた。
いかにそれが強引な変化であっても、驚くほど人間は環境に順応する。人間は環境の奴隷だ。あれほど「スタバへ行かないと落ち着かない」と思っていたのに、外へ出ず自宅で過ごすことを静かに受け入れていた。
緊急事態宣言から半年以上たった今、スタバの年は遥か昔に思える。緊急事態宣言が解除されてからも、スタバの年は戻ってこなかった。習慣は一度途絶えたことで、体から離れてしまっていた。
人間の「こうじゃなきゃならない」という思い込みは、そのときの環境に適応しているだけの非常にもろいものだ。スタバの年はそんな教訓めいたものを残し、去っていった。
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ここでこの文章をやめてもいいのだけど、もう少しだけ続ける。というのも、この文章を書いている途中、久しぶりに通っていた近所のスタバへ行きたくなったのだ。
スターバックスカードには、残高がきっちり残っている。4月以来、一度も行っていないが、店内はどんな様子なのだろうか。リュックにパソコンを滑らせて肩に担ぎ、マスクをつけ、スタバまで10分ばかりの道を歩いた。
店内へ入る際に、なんだか緊張してしまった。つい半年前には、毎日のように訪れていた場所である。それが環境の変化で、まったく足を踏み入れなくなった。「お前のスタバ愛など、まったく信用ならない」そんな罪悪感のような後ろめたい気持ちが心のどこかにあった。
レジへ向かうと、顔馴染みのスタッフさんがショーケースにサンドイッチを補充していた。スタッフさんはすぐに気づき、「うわー、久しぶりですね!」と声をかけてきた。その声で別のスタッフさんが、「ほんとだ、お久しぶりですー」と同じように明るい声で挨拶をしてきた。スタバの年に感じていた親密な空気がフラッシュバックした。
「ああ、どうも」とマスク越しにもごもごと言葉を返した。憶えてくれていたのか。そりゃそうか。あれほど病的なほど通っていたのだから、憶えていて当たり前か。
ソイラテを作ってもらっているあいだ、「どうされていました?お勤め先の場所が変わったんですか」と聞かれた。「外に出ないのが習慣になってしまって」そう話すと、微笑みを浮かべながらうなづき、「お待たせしました」とマグカップに入った温かい飲み物をカウンターに置いてくれた。お礼を言って、カップを受け取った。
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閑散としているかと思ったが、店内は想像と違い混雑していた。よく座っていた席は埋まっていたので、第3候補くらいの2人がけのテーブル席に腰をおろした。
リュックを向かい側の椅子に置き、ソイラテに口をつける。そして以前そうしていたように、店内の様子をゆっくりと見渡した。
間隔を置くため、隣り合わせのテーブル席には使用禁止の張り紙がしてある。大テーブルには椅子の位置に合わせ、アクリル板が立てかけてある。以前と同じように見えて、店内の光景はほんの少し変わっている。そりゃそうだ。何もかもが終わって、平和な時代が戻ってきたわけではないのだ。
それでも店内でカップを片手にしている人たちを見ると、ゴーストタウンに思えた街の様子からまた別の時代に移ったのだと肌に感じる。あの、人の姿のない静かすぎる街並みは、どうしようもなく心を寂しくさせた。自分にもスターバックスにも、あれから平等に時が流れたのだ。
2020年は、急激な環境の変化に翻弄された年だった。何もかも以前と同じにはいかないけど、2021年は若干スタバの年を取り戻したい。