私は”それ”を知っている


ノーベル賞受賞者アリス・マンローの娘が、家族の虐待の秘密を明かした。

こちらはそれを報道したものだが、彼女自身の告白全文も別サイトにある。しかし、私は全て読む勇気がなかった。できなかった。凍りついてしまった。読める人は、ぜひ読んでほしいと思う。

端的に言えば私が直接的”それ”を受けたのは、たぶん数ヶ月、記憶は曖昧だが、長期間ではないだろう。私は壊れそうになる度にあんなわずかな期間で終わった、逃げられた自分は幸運なのだと言い聞かせた。
(誰かの被害をジャッジすることに繋がるので、本来はこういう考え方はよくない。しかしそう思うしかなかった。)
裏を返せばこんな僅かな期間で”こう”なってしまうのである。期間はそれぞれ、一回でも一生続く被害だ。更に、更に長期間に渡る児童性虐待被害者は数多くいる。多くは隠されている。被害者が隠れて暮らしていかなくてはならない。まだそういう社会だ。

私はわずかな期間ながら”それ”がいかに狡猾で、そして周りの善良な人間をも巻き込み、続いていくものか、知っている。

まず”それ”は、子供の羞恥心を笑う。バカバカしいだとか、おませだとか、自意識過剰とか、そうやって無視する。これは善良な者も行ってしまう。「まだ幼いのにねえ」と微笑ましく笑ったり。そうすることによって、善良な者も”それ”の加担者となる。

そして、加害者は”それ”が”それ”であることを否認する。他のなにか理由を作り出す。これも善良な者は加担者となりうる。”それ”という信じられない出来事よりもより、あり得る理由のほうが信じやすいのだ。
そして、加害者は”それ”を被害者が求めたことだと嘯く。善良なる人間であっても、加害者の言葉が嘘八百だと思えない場合がある。加害者との関係、加害者の社会的地位、そして児童が被害に遭ったと認識したくない、おぞましいことを認めたくない自己防衛。
性虐待の加担者は、悪人とは限らない。普通の善良な人々を加害者は利用する。

遠くにある”それ”の事実を見聞きしたとき、虐待者に怒りを感じ、想像上の復讐劇で気を休める前に、まずは自分も加担者になることがありうると認めるべきである。怒りを感じるのは当然のことだが、まっすぐ怒りを感じられるのは距離があるからだ。
”それ”は近くにもあるかもしれない。そのとき、できることは限られている。
よく目にする。自分の大切な人が”それ”に遭ったら「自分なら加害者を殺す」と。殺人は”それ”をすることよりも何倍も難しい。殺人はそんなに簡単なことではない。だから復讐を遂行した人物は語り継がれる。簡単に殺せないし、たとえ殺したとしても”それ”の記憶は消えない。被害者本人でさえも殺したいと願っていても、できないのに、殺すのに、なんて言わないでほしい。

それよりも、”それ”の加担者にならないためになにができるか考えてほしいし、加害者本人に目を向けてほしい。加害者をモンスター扱いすればいいわけではない。自然災害のようなものと扱えばいいわけではない。

加害者は人間で、一定数存在する。
”それ”は行われ続けている。この瞬間も。


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