「推し活」に見るFiの社会への反逆
後半ではちゃんとMBTIに言及しています
「推し」という概念をいまいち理解できません。
それはお前がおっさんだからだろと言われたらまあそうなんですが、それならなぜおっさんになると「推し」を理解できなくなるのでしょうか。wikipediaによると、「人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物」を指す言葉らしいです。それは漢字からある程度意味を推測できるのですが、そんな言葉わざわざ新しく作らなくてもすでにある言葉の中にいくらでも見つかります。この定義そのままでいいのなら、カジュアルさとのバランスを考えると「おすすめ」で充分な気がします。
でも決して「おすすめ」と同じ意味ではないからこそここまでひろがったのだろうということは容易に想像できます。であれば、新しい概念として気合を入れて捉えなければなりません。これがどういうものなのか、自分なりに理解していきたいと思います。まずは言葉の変遷をたどっていきましょう。
漢字の意味
「推し」という言葉以前に、当然日本語としては(多分)古くから「推」という感じは使われてきましたので、まずはこの漢字のニュアンスから掴んでみましょう。
ネット上の辞書によると、
という意味があるようです。
この中で言えば、②(または①)が強く「推し」という言葉と関係性がありそうに感じます。
「えらんですすめる」のであれば、ますますおすすめでいいじゃないかという気がしてきました。どうやら漢字そのものから概念の本質に辿り着くのは難しそうです。
現在の用法に連なるアイドルファンによる使用
そんなことは知っていました。
「推し」は現在でも主にアイドルファンの間でよく使用される言葉ですので、ここを少しさかのぼりながら掘ってみましょう。
厳密には更に太古から存在するようですが、一般的に知られるようになったのはAKBの人気が高まってからでしょう。かつてのAKBは個別のアイドルごとにファンを抱えてその人気を競いあい、CD売上などの目に見える数字により常にアイドルたちが比較されていましたから、それぞれのファンがCDを買ったり周りに布教したりしたので、そのファンが思い思いにアイドルを「推す」というイメージも浮かびやすいです。その競争の結果、より「推された」アイドルはグループ内で有利な位置を得ますし、それに伴い周りの扱いも変わっていきます。
そうなんです、「推す」という言葉は基本的にTe(外的思考)的なニュアンスを内包しているのです。「~に」「~を」という情報があって初めて成立する動詞ですから、基本的に周りへの働きかけを前提とします。
前項に立ち返りますが、「推」という感じが使われる熟語を想像してみると、「推薦」「推挙」「推進」など、外的世界への自らの働きかけを前提とする意味を持つことがほとんどです。もちろん、「自分が好き(Fi)だから、良い人(Fe)だから~さんを推薦する」ということもあるでしょうが、「推薦」という言葉の本質は外的世界の様々な力学(物理だったり、政治だったり……)を利用して何者かを具体的に上へと押し上げる行為ですから、やはりきわめてTe的だと言えます。
AKB時代の「推し」行為とは、当人たちの好き嫌いをベースにしていながらも、その本質としてはきわめて客観的な、公理(=数字こそすべて)に基づいた行為であったと言えるでしょう。
これは、本来の「推し」のニュアンスとさほど変わりません。僕自身はAKBを好きではなかったので所詮よそ者ではありますが、少なくとも周りから見ていて「ああ、推してるんだなあ」という認識を違和感なく持つことができていました。漢字の持つニュアンスと彼らの行為にそこまで相違を感じなかったからです。
「推し」が持つニュアンスのFi方面への意味的な広がり
僕は最近この言葉に違和感を持つようになったのですが、要するに「好き」との違いがいまいち判りません。
このエントリーを書くにあたって色々調べていましたが、こういう記事に出会いました。他の人が「推し」という概念について僕よりずっと前に考察していたようです。
まず当時から兼近は推す必要なんてないくらい充分人気だったんじゃないのか……?という疑問が浮かびますが、いったんそれは置いておきます。注目すべきは次の記述です。
ごく最近まではTe的な活動の形容であったはずの「推し」ですが、ここでは当人の日常生活を豊かにするための行動に変化しているのです。少なくとも、この記事における考察ではTe的な外部への働きかけは感じられません。とにかく「推し」に囲まれることで自分の心が満たされることを目的にしているように見えます(だからダメだという訳ではありませんよ)。
これは2020年の記事なので2021年の流行語である「推し活」は出てきませんが、これは「推し活」以外の何物でもない描写だと思います。もちろん僕が新たに調査することはできませんが、近年定着してきた「推し活」という言葉が内包する活動には、こういった行為が多分に含まれているように感じます。そして、僕が持つ違和感もこういった部分に由来しています。「推してないじゃん」「オタ活でいいじゃん」と思ってしまうのです。そして、元々感じていた「推しなんて使わないでもおすすめでいいじゃん」という疑問も未だぬぐえていません。最近では、自分の好きな家具や家電にも「推し」を使うようです。それこそ「おすすめ」じゃ何がダメなんだと思うのですが……これは一体どういうことなのでしょうか。
Fiによる社会への言語的な反逆
ここまで話を進めて来てこう感じました。物騒な言い方をしますがそういう側面は否定できないのではないかと思います。
Fi:内的感情は、論理を超えた自らの心の安定を最も優先的に考える判断機能です。Fiを優性機能として持つのはXXFP型ですが、そんなこと関係なしに人間誰しも理屈じゃない好き嫌いを持っています。しかし、社会の制度はことごとくFiに対して冷淡です。法律だったり、会社だったり、人間関係においてだって自由に好き嫌いを表現できないことも少なくありません。人と関わる限り必ずTeが付きまとい、多かれ少なかれ外部への客観的な働きかけを求められます。その過程のどこかでFiはTeによって虐げられ、自分の感情を我慢しなければならないのですが、我慢しなくていいのであればその方がいいに決まっています。そして、そういう社会である方が健全に決まっています。
「推し活」という言葉の発明は、こういった思考の結果であるように思うのです。その外部への承認プロセスを行動ではなく言語に求めるのです。
つまり、外部への働きかけとその実行というニュアンスを前提に持つ「推す」という言葉を使いつつ自らの感情を表現することによって、少なくとも言語の上においては「自分の好きなものは周りに承認されて当然である」という信念を表明することに繋がります。だからこそ、「~を推す」という点は強調しても、「~に推す」という点は必ずしも意識されません。
自分の世界で完結する「好き」という言葉と差別化されなければならなかった理由はそこにあります。「好き」だけでは満足できなくても、「自分はこれが好きだ」ということをとりあえす社会に表明できる体さえ整えられたらそれでよいのです。そういう流れがわざわざ「推し」という概念が新しく生み出されることにつながったのでしょう。こういう訳なのでもちろん「おすすめ」でもダメです。
日頃から虐げられているFiが、社会に対してささやかに、しかし明確に反逆していると捉えられなくもない気がします。
おじさんもFiは大切だと思ってるよ
Fi的な思考は誰しも持ち合わせているものであり、また、その好き嫌いを他人から承認されることを欲しています。僕は表面的には自分の好きなものを貶されても平気ですが、心底バカにされるとやはりいい気はしませんし、何なら周りにも認めてほしいと思っています。NT型なので悪趣味なものばかり好きですが、それでも社会で適応するために「こんなもの好きでいてはいけない!」などとは思いません。
だからと言って推し活をしたい訳ではないですが、自分が好きなものを好きなままでいたいし、それを堂々と公言したいという気持ちは大いに理解できます。
Fe、Te的な考え方は依然社会で猛威を振るっています。人間が社会で円滑に活動するにはやむを得ない事でしょう。しかし、近年ではFi的な感性を尊重する機運も生まれています。
余談ですが、このNoteでは更新のたびにいろんなメッセージが送られますが、よくFiに寄り添った言葉を送ってもらうイメージがあります。僕としては「創作が継続できていてすごい!」って機械に言われてもなんとも思いませんが……笑 しっかり読んでくれる人に褒めてもらえると嬉しいのでよろしくお願いします。
ともかく!より多くの人間が幸せになることは間違いなく喜ばしい事なので、この期を逃がさず様々な人が社会に健全なコミットができるよう突破口を見つけていってほしいですね。我らがENTPを含めてNe優性の人も今後救われて行ってほしいものです笑
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