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「体験」と「脳験」の違い

「理解」とはどのように生まれるか?

何か物事を本当の意味で「理解」するには、「体験」が必要になってくるんですよね。

だから本、インターネット、SNSなどを通じて「情報 Information」や「知識 Knowledge」をクリップ&ブックマークして沢山集めて、「理解」「分かった」つもりになっていても、「実践」「プラクティス」をして「体験」しないことには「理解」は生まれてこない。

柔道や合気道などの武術に習熟、上達したいと思ったときに、

「柔道とは何か?」
「受け身のやり方とは?」
「技のかけ方とは?背負投は具体的にどのようにかけたら良いか?」

という「情報」や「知識」ばかり読んで集めて、実際の稽古・練習をしないで頭だけで理解、分かったつもりになっているのはとっても愚かですよね。

それと同じように「瞑想」の「情報」や「知識」を集めているだけで、何も実践・プラクティスしなければ、「瞑想」の体感、味わい、理解というものは決して起こってこないです。

もちろん身体、細胞レベルの変容や意識の変容も起こらないですね。

腑に落ちた、腹落ちしたという日本語の表現からみても分かるように「理解」というのは、「身体的」な「体験」が伴うもの。

これまで自分がやった事ないことは最初慣れるまで続けるのが少し大変かもしれませんが、それは成長痛と捉えて、試行錯誤の実践がどんな分野でも大事ですね。

それなので自分にとって最適な実践方法をみつけたら、あとはやるだけ。

本当の瞑想の味わいを知りたい方へ

もし同じように瞑想に入れている実感がない、もう少し本格的に瞑想に取り組んでみたいなど感じていたら、お気軽にメッセージください。
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