コンセントは必需品(diary230)
本日のnoteは”コンセントは必需品”。
「ここにコンセントがあったらよいのに」
喫茶店で内心思っていること第二位のはずだ。ちなみに1位は「ここWi-Fiないのかな」だ。異論は認めない。
人々の生活を支え、我々に潤いを与えてくれるものであり無くなったら生きていけなくなるくらいのもの、使う量は人それぞれだが誰しも電気を使用するときに必要とするのがコンセント、コンセント自身も内心思うことがあるだろう。
「俺、今めっちゃ人の役に立ってるな」って。
どんなに酷使しても、文句言わず我々に電気を与え続けてくれるのである。たまにブレーカーを落として「使いすぎだぞ」と警告すらしてくれる。
電化製品、携帯電話、様々な環境で使用されるコンセントは我々のインフラを支える生活必需品である。
必需品はコンセント以外にもあるが、なぜコンセントにフォーカスを当てたのか、でいうと、目の前にコンセントがあって目に入ったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、コンセントは必需品だということを伝えたかったのである。
必要とされるってそういうことだ。必要とされないと使われないのである。
今のビジネスにおいて、本当に使われるのか?は問い続けたい。コンセントのように人々に影響を与える、需要があるビジネスなのかを。
コンセントのように「何で使えるか」を全世界共通認識として持ってもらうのが、会社としての存在意義なのでは?と思う。
会社単位じゃなくても「僕はこれができるんです」を知ってもらうことで、「この人使えるかも!」と思ってもらうことができるのだ。
要は、自分には何ができて何ができないのかを自分自身が理解していないと、誰からも求められない、ということにつながる。
ということは、自分が何者なのかをまず理解することから始め、何者でもない場合は、何者になりたいのかを目指すところから始めないといけないのではないかと。
身近なところにヒントは落ちているのだ。発想を転換するのだ。自分で考えるのだ。
そして、試行錯誤した後に自らの意思で行動するのだ。そうしないと何も始まらない。
何もないと嘆いている人はそのまま嘆き続けるしかない。
偉そうに行ってみたが、僕自身もまだコンセントのように求められているわけではない。
どれくらいだろうか、、、と例えてみようと思ったが思いつかない。
30歳を超えて、「何ができるのか」を自分なりに説いてみる必要もある。
営業なのか人事なのか人とのつながりなのか、、、
何でも屋とよく言われる人を見るが、なぜ何でも屋が存在するのかを考えてみた。
人は思考し試行する、コンセントは思考し試行しない、これの違いだ。
コンセントは期待値調整が完璧にできているのだ。人は思考し試行するから、その期待値に寄せようとする。
期待値さえ合えば、何でも屋になれるということだ。ということは、自分なりにできないと思っていても、相手側からするとできている状態を作れば良いってことだろう。
そう考えると、自分なりの「できる」を最大限高める必要があり、視座も高める必要がある「これがこの人の当たり前だ」がとても高いか低いかは関わる人によって変わる。当然役職者が高い人の方がその視座は高いだろう。
ちょっと話が外れてしまった。
でも大事なことだろう。目の前にあったコンセントからこういう思考ができるのだから。
結論、使われる人になろうってこと。
また来週。
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