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私たちの<しごと>は、「マスク2枚」と同じになっていないか?

アベノマスクが、わが家にも、そして職場にも届いた。

今さらこのひどい「支援」について蒸し返すつもりはない。なんだか触るのもイヤで、机の上に放置したままになってしまっている。職場の同僚も、フリースペースに来る若者たちも、机の上に放置されているマスクを見ると「あ、届いたんですね」と言い、そのあとはだいたい無言。もう誰もこの「支援」について、莫大な予算のこと、調達先のあやしさ、不良品の多さなどなど、散々見聞きしてきて、もはや話題にするだけで「恥ずかしい」「情けない」と言った感情になるのだろう。無言のあとは、苦笑いか、ため息くらいしか出てこない。

そんなとき、「私たちの<しごと>は、このアベノマスクと何が違うのだろう?」「自分たちのやっていることは『このマスク2枚とは違う』と胸を張って言えるのだろうか?」と考え込んでしまった。

私もその場の思いつきで「これがいい!」「これしかない!」と提案したり、実行することが多い。もちろん、そう考える根拠や背景をよく吟味してのことだけど、スピード感が求められる現場では、「まずやってみよう」ということも少なくない。

予想がはずれたり、思い違いだったり、タイミンが悪かったり、そりゃ散々失敗してきました。こんなにお金をかけたのに…と反省することも多い。「これが支援」と思い込んで、実践して、失敗して、マインドセットして、また実践して、失敗して……の繰り返し。
だから、アベノマスクを見たとき、そして周囲の怒りようを目の当たりにして、「これは他人事じゃないぞ」と思ったのです。

そんなことをモヤモヤ考えているとき、法政大学総長の田中優子先生が、5月11日付で発表した「内省のとき」を読んだ。

総長から皆さんへ
第6信(5月11日)内省のとき

(本文からの引用…論語にある「三省」の解説)今日私は、人を助けるときに真心を尽くしたか(自分の利益だけで動かなかったか)、友人に対し自分を偽らなかったか(人に嘘をついたりごまかしたりしなかったか)、自分がまだ充分身につけていないことを人に伝えなかったか(生半可な知識をひけらかさなかったか)、と。耳の痛いことばかりです。

読んでいて、私自身も本当に耳が痛くなったが、アベノマスクと私たちの<しごと>の決定的な違いは、この「三省」にあるんじゃないかと思った。

失敗したって何度でも許されて、他人に迷惑をかけてなんぼという、そういう子ども・若者期と接する私たちの<しごと>には、なによりもこの「三省」が必要なのかもしれない。

「ほらアベノマスクだって役に立ったじゃん」なんて、口が裂けても言えないし、言う必要もないが、せめて私たちの<しごと>への誇りを見失わないように、「三省」を忘れないように、もう少しの間、机の上にほおっておこうと思う。

#コラム #ユースワーク


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