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【Venus of TOKYO】Venus of TOKYOとの短くも濃密な物語。大千穐楽を終えて、明日からも現実世界を生きていくためのまとめ【アーカイブ】

※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。

ダンスの公演を見に行ったことがなかった。
DAZZLEという名前を知らなかった。
イマーシブシアターという言葉を知らなかった。

知り合いの知り合いの知り合いから教えてもらった知り合いの知り合いから教えてもらって観に行ったその知り合いから、閉館間際のヴィーナスフォートで上演されている「Venus of TOKYO」というイマーシブシアターについて聞いた。
なんとなく面白そう、と思ったが、すべてがネタバレになるということで中身のことは何も聞かされなかった。
なんとなく面白そうという直感だけを胸に、フッ軽を信条とする私は黒い服を着て一人お台場へ向かった。1月の寒い木曜日だった。

その日受けた衝撃はとても語りきれない。

帰り道、教えてくれた知り合いに「あと10回は見る」と連絡した。10回、とは見立てが甘すぎたことを後で知る。
あわせて「リスペクトで明日から黒マスクで過ごす」と謎の宣言をした。

帰りの電車の中でELZZAD有料会員となった。この時点でまだDAZZLEメンバーの顔と名前を一人も知らなかった。
続いてホームページの対談記事を貪り読み、サノマの香水を購入した。
このVenus of TOKYOというコンテンツにお金を落とすことに、1ミリの迷いもなかった。こういうもののために、自分は日々働いて生きているのだ。住んでいた世界を変えてくれる掛け値なしに美しいもののために。清々しく晴々とした気持ちだった。

キャストの情報はSNS上にしかないとわかり、勢いでTwitterの専用アカウントを開設した。
趣味の専用アカウントを作るのははじめてだった。勝手がわからなかった。
キャストに加えて、常連の顧客たちを少しフォローしてみた。
様々な情報が入ってきた。情報に溺れながらとても幸せな気持ちだった。
リアルではお話しできなくても、皆それぞれの生活があって、折り合いをつけながらあの場所に集っているということが奇跡のように思えた。

翌日から黒マスクを装着し、時間を作ってはお台場へ通った。
仕事を抜けやすい木曜日が、自分の主な出演日となった。
なかなか現地へ行けない時でも、お台場にはあの世界が広がっている、VOIDの時間が流れている、と思うだけで無限の力が湧いてきた。
頭の中に、心の中に、VOIDの世界が五感とともに息づいているというだけで自分が無敵になったような気がした。
仕事中も「そろそろマチネ公演が始まるころだ」と思いを馳せ、VOIDで生きている人達のことを思うと苦手なプレゼンも何も怖くなくなった。それはとても不思議な力だった。

オンラインを毎日のように観た。リアルタイムで観られなくても、一日の終わりには必ずオンラインがあった。その日紡がれる新たな物語を楽しみに、その日を生きた。
Twitterがあることで、他のAIたちと一緒にオンラインの物語に没入できているようで、暖かい気持ちになった。
毎日オンライン配信があること、それがただの配信でなく、オンラインだけの特別な物語だったこと、それにどれだけ救われたか。


それから2ヶ月半。

色々な人の物語を追いかけた。豆を浴び、ひなあられを浴びた。
自分なりにいろいろな考察をした。散りばめられた手掛かりや、一回一回の演技から、それぞれの人物の背景を考えた。
能面やギリシャ神話について調べたり、画家や音楽家について本を読んだりして、そこから見えたVenus of TOKYOを自分なりの言葉にした。
元の意図とは違ったとしても、全く異なる世界どうしが結びつけられる可能性があること、その結びつきを自分なりに調べて想像すること、その作業はこの上ない幸福感を伴った。
Venus of TOKYOという世界の、世界としての間口の広さがそうさせてくれているのだと思った。
誰がどこを見てどんな見方をしてどう感じたとしてもすべて許される。正解がない。特定の視点が提示されていないことの僥倖。

チュートリアルと自由時間の、スタッフを含めた各人物の動きをタイムテーブルで可視化してみた。そこに各シーンのセリフを入れ込んで、自分だけの秘密のスプレッドシートを作った。
動線、音楽、誘導、いかに緻密に設計されているかが改めてよくわかった。
この作業で失われるものもあるかもしれない、と思いながらも、徐々に地図が埋まっていくような感覚が楽しかった。

キャストの方々の顔と名前がわかるようになった。
マスクをしているから、多くを眼で判別している。それぞれに違った眼を持っていて、それぞれに違った輝き方をしているんだなと思った。今でもそれぞれの眼の輝きは鮮明に思い出せる。もしかしたら演者の側からも、逆にそう思われているかもしれない。
オープニング前に覆面をしている状態のVOIDスタッフも、いつしか誰が誰だかわかるようになっていた。
それぞれのダンスやパフォーマンスの好きなところができた。ちょっとした仕草にもこだわりが宿っていて、毎回のように発見があった。好きなところを挙げるとキリがない。

いつのまにか貯まっていたVOID通貨で、真実を見通すヴィーナスの眼を落札した。思い切って手を挙げた時、自分の周りの空気がふっと優しく動いた。
時間をかけて謎を解き、物語に介入した。介入できるようになるまでの試行錯誤、途中経過も、愛おしい時間だった。謎の全貌が見えた時、VOIDの物語に対応した構造のあまりの美しさに鳥肌が立った。
物語に介入して見られた光景は、招待客役として確かにVOIDの世界を生きている手応えを一層強く感じさせてくれた。

オンラインも、試行錯誤の連続だった。
毎日あの世界を覗ける幸せと、さらなる物語に向けて歩を進めたい欲望がせめぎ合った。
それでも、徐々に見えてくるオンラインの構成からはAIたちに向けられた強い強い信頼を感じた。ともに物語を創る者としての信頼を向けられることほど、嬉しいことはない。
公演を通してただでさえ抱えきれないプレゼントをもらっているのに、さらに信頼という大きなプレゼントをもらった。つくづく我々は幸せな「客」だと思った。

ヴィーナスフォートへの道は、見慣れたものになった。乗り換え案内を見なくなった。
Dexee Dinerと春水堂が行きつけのお店になった。いつもの店員さん、季節のメニュー。
コインロッカーから教会広場までの道は、他の客にはわからない特別なレッドカーペットだった。空の色の移り変わりを見上げながら歩いた。

クローゼットに黒い服が少し増えた。お台場へ行かない日も黒い服を着たくなった。
画像フォルダにVOIDの風景が増えていった。自分が切り取った風景。

料理を作る時、あの音楽が頭に流れるようになった。出来上がった料理を並べる時、頭の中で小さく拍手をする。
生活をしながら、街を歩きながら、何となく身体の動きを意識するようになった。あんなふうにキレのある動きはとてもできなくても、ちょっと背筋を伸ばして、自分なりに良い身体の動き方で世界に存在できたらいいな、などと思うようになった。

目が合うことで生まれる力を学んだ。
VOIDでもらっていた活力の半分くらいはもしかしたら「目が合う」ことでもらっていたものかもしれない。
過去や価値観を共有しない赤の他人どうしでも、言葉なく通じ合う何か。自分と相手の存在確認。
マスク越しでも、話せなくても、伝わるものはたくさんあるんだと教えてもらった。演者だけでなく、他の招待客とも通じ合う瞬間があって、それは自分にとって希望になった。


全没入回数はちょうど30回。
30/877という数字からは一見できないほどの濃密な体験が詰まった30だった。
そこから残りの847という数字、各回の演者と招待客のそれぞれ、オンラインのAIたちにも思いを馳せる時、ほとんど無限と言って良いほどの物語があの一角で生まれ続けていたのだと、改めて途方もない気持ちになる。

そして3/27大千穐楽。

未来のAIたちに向けられた監視者の最後のモノローグと、リアルの光景は、無限に生まれ続けた物語を決して一つにまとめようとはせず、そのまま優しく包み込むようなものだった。
その優しさはFin.で流れる音楽に感じていたものと同じ優しさだった。

発話が禁止されたVOIDの世界は、図ってか図らずか今の現実世界と符合する。
マスクの下で他の人が何を考えているのかわからない。個別化する世界の中で、我慢を強いられながらも蠢く欲望、感情。
ラストで公演中唯一肉声が放たれる瞬間、他の人物、他のシーンでは全く肉声が発せられず、ある意味で抑制されていたVOID内の空気が一気に弾けるように、劇的に振動する。
長引くコロナ禍、感染症対策、休業要請、移動自粛、そういうものも含めたすべての鬱憤が爆発するような一瞬、それでも言葉は不要とばかりに、マスクをしたままそれぞれの感情が激しく迸る。人間の肉体はこんなにも感情を表現できるんだ、ということも、VOIDで教えてもらったことの一つ。

そしていつものループと違う最後の光景、カーテンコール。
ただただ、無言で、言葉はなく、それなのに痛いほどに伝わり合う巨大な感情がそこにはあった。画面越しにでもよくわかった。

長い時間の中、過去にも未来にもそれぞれに無限の物語があって、それを持ち寄って、決して一つにならずにそれでも通じ合う線。
人が人である証の「感情」が、その線を太く繋いでいるんだなと思った。

監視者が無数のループを超えてようやく辿り着いた到達点が、本当に本当に紛うことなく目の前にあった。
モノローグの画面が取り払われた瞬間の光景は目に焼き付いて離れない。
リアルとオンライン、2つの物語が本当の意味で繋がった瞬間だった。

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VOIDでも、現実世界でも、自分一人ですべてのものを一度に見て、感じることはできない。世界のすべてが等価に浮遊していて、視点も切り取り方も、自分自身が選び取る。どう料理してどう咀嚼するかは自分次第。選び取らなかったものは見えない。人間に与えられた想像力という力を使って想像するしかない。
そうやって「あなただけの物語」が紡がれていく。「あなただけの感情」が生まれていく。

ヴィーナス像の欠けた腕のように、VOIDのウェルカムプレートのように、虚無にこそ人は思い思いの感情を投影できる。虚無には正しい形も色もない。だからこそ世界は無限の彩りに満ちている。

現実の写し鏡、Venus of TOKYO。
現実が存在し続ける限り、その裏側にあの日のVOIDも存在し続ける。魅力の尽きない彼ら彼女らも生き続ける。
またどこかで。ありがとう。お元気で。

(2022年3月28日投稿 元記事@ふせったー

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