書き重ねる:2020/11/18

書くことは、多分というかほとんど私は確信して必ずしも表現である必要はないと思う。だから、何だ、と言われてもよくわからない。何を書いているのか、ただ書いているのだけれども、その意味はわからない。だんだんそれでもいいと思えるようになってきた。ただ書いていればいい。

書き重ねる。おんなじことを毎日書く。それは意味を深めるのではなく、意味を漂白していくことなのかもしれない。言葉に染み付いた垢を、すこしづつすこしづつ落として、何度書いても残ったもの、残ってしまったものをみたいのかもしれない。それは、やっぱり最後まで書かないと見れないものだ。どうやってもいきなりたどり着くことはできない。

あこがれる。そして、今の自分はそうではないとわかりつつ踏み込むしかないことに、希望を持ってまた書き始める。書き続けた果てにしかないものだけれども、また書けばわずかにそれに近づくであろうことは知っているから、小さな印をつけるつもりで、また書く。


心が、心としてよくわからないまま頭の中で言葉を探す。言葉を探さないなら、それは曖昧なもののままでいられるが、言葉を探すから言葉は間違う。間違うことにも何かがある。もし言葉の裏に何もないなら、言葉は全て本当になってしまって、嘘をつく余裕も、意味のないことを書くことができる安らかな真空も失われてしまう。そして、言葉がない澄んだ沈黙も失われてしまう。言葉の中でしか生きることはできずに、言葉と言葉の間に書くことができなかった私の呼吸が入り込むことはない。

昨日は今日の文章の続きで、今日は明日につながる文章の果てである。単純ながら続いていく線を追いかける……かのように見えて線を書いているのは自分自身でやっぱりどこにいくのかわからない。そんなことを毎日懲りずに書いている。それだけが確かなことだからかもしれない。それだけが書くたびに確かになることだからかもしれない。それだけが、いくら書いても確かなことだからかもしれない。それだけが、書くその瞬間に確かになるものだからかもしれない。


思考を止めずに書く。一息で繋がる文を書き繋いで止めないように、指を動かすことを止めないように、頭の中の声が途切れないように、怯んで聞き逃さないように繊細な声を追う。


そうすると考えの間がよくわかるのだ。息を大きく吸って吐くように、意味の塊がゆっくりと吐き出される。かたまりとかたまりの間にはどうしても何も書くことができない間があって、私は黙ってキーボードを押す。押すしかなくて、次の言葉を探す。どれだけ探っても、確かな感触はなく仕方なくじぶんの書きたい方向を見つめて進まなくてはならない。それからゆっくりと言葉がついてくる。言葉と呼吸が合っている時が、幸せな文章を書く時間だ。初めに自分が動き出して、言葉がだんだん加速していく。言葉の方が早くなっていく。追い抜かれないように私は走る。その並んでいる時間に言葉が形になる。

やがて私は走れなくなって、言葉を手放す。息を吐く。もう一度、言葉がそっとよぎるのを待つ。もうひとつ送り出した。また一つすれちがった。その繰り返し。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!