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引用しない

これは私の勝手な流儀だが、他の人が書いたものを引用しない。理由は、面倒なことが多いからだ。引用するためには、きちんとしたルールに基づいてしなくてはならない。出典を確認したり、意味をちゃんと理解したりしなくては引用できない。

つまり、引用しないのは一つのやり方である。もちろん、引用することがいけないわけではない。

私が面倒だと思うのは、引用しようとしなかろうと結局は自分の考えを述べなくてはならないからだ。引用とは、他の人の考えを借りることではなく、自分の考えを補強することだ。だから、引用して楽になることはない。むしろ、文章を向上させるための一手間だと思って良い。丁寧に調べて、きちんとした引用をするほど文章は良くなり、内容は充実するだろう。

引用しないということは、そうした充実の仕方を拒否することである。その代わりに、その場で生まれた言葉を全面的に肯定する。書いている間に、他の人の言葉が浮かぶこともあるが、そうした場合はわざわざ自分の言葉で書き直す。書き直すことができないのなら、その言葉が指し示す内容をきちんと理解していないと言える。だから、それは引用してはならない言葉だと判断して、そもそも書こうとしない。

引用には、「準備」が必要である。日々、何かを読んで他の人の考えを知っておく。そして、書く前にも何を引用したいのかをきちんと把握する。それらは、書きながら考えることとは、対極的な姿勢である。「読みながら考える」と言って良いかも知れない。その方が得意な人もいるだろう。これもまた、やり方の違いで好みの問題である。

私が引用をしないのは、やはり読むことがうまくできていないからだと思う。じっと座って、書かれていることを吟味することができない。これは、文章を書くものとしてどうかと思うが、仕方がない。それよりかは、自分がたった今考えているくだらないことの方が興味がある。自分が起点でないと、やる気が起きない。だから、書く方が好きだ。

引用をしてもしなくても、気をつけるべきは読む側と、書く側の立場をきちんと把握することである。引用するなら、出典を知らない読者にわかるように書かなくてはならない。そうでなければ、知識を披露しているだけになる。やはり、味わって欲しいのは、はじめから出来上がったものではない。今この場で、展開されているもののほうか、面白い。それが、くだらないものであったとしても、生き生きとしていれば人の心を捉えることができる。

引用しなかったとしても、それはある意味自分の言葉を引用していることになる。そして、無から言葉を生み出すことはできない以上、私たちは必ずどこかで引用している。それは、ルールで定められた形式的なものではない。どこかで感じたことを、言葉に変換する。言葉を他の言葉と比べて吟味する。言葉をもとに、別の言葉を生み出す。それらは、出典は定かではないが、引用である。

ここで、「引用しない」というルールは常に破られていることになる。本当は、「自分の言葉で語る」というルールの方が良かった。引用したとしても、それが自分の考えと有機的に結びついていれば良い。大切なのは、書いているその瞬間に考えが躍動していることを感じられているかどうかである。他でもなく書いている自分自身が、言葉を踏みしめて進んでいかなければならない。

そうでなければ「書いている」というより、「書かされている」と感じてしまうだろう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!