書き重ねる:2020/11/28

午前中は庭をはいていた。秋は落ち葉が落ちる。だから掃いていたのだが、ああ書くことも、掃いても掃いても落ちてくる木の葉を掃き続けることと同じだろうな。と思った。

きりがないから、全ての葉っぱを掃除することはできないのだけれども、まあ、掃くととりあえずは綺麗になる。まあ、明日も落ち葉は落ちて積もって、いずれまた掃くことになる。それでも今日の分を掃く。

お腹が空くのになぜ食べるのか、という話とよく似ている。しかし、落ち葉の場合、掃いてもお腹は満たされない。疲れる。時間が過ぎる。

初めから掃かないという考え方もありえる。どうせ積もるなら、積もるままにしてしまえばいい。それでなんとかなるだろう。

多くの人はそうかもしれないし、その考え方は自然でもある。

だから、掃いているほうが特別で、掃かなきゃならない理由も、義務もなしにただ落ち葉を掃いて集めている。

むしろ、掃かせてもらっていると言ったほうがいい。余計なことを、できるということは何かの許しなのだろう。落ち葉が落ちているから、落ちてくれるから、私は掃くことができる。掃いても、また落ちてくれるから、私は明日もたぶん掃くことができる。

掃くことがきりがないから、そんなことを思っているのかもしれない。

書くこともそうだよな、と掃きながら考えている。これもそうだよな、という思考はいくらでもできるのだけれども、これも偶然、書くことと掃くことが、たまたま共鳴しているように感じたから、重ねさせてもらった。

積み上がる行為ではない、集めたとしても捨てる。意味のある行為ではない、成し遂げたとしても何も残らない、また積もる、また書くことになる、また書きたいと思う。書かなくてはいけないわけではない、何も求められていないし、何かを求められてしまうと、変わってしまう。それは、させてもらっているのではなく、しなければいけないことになる。

話はとぶが、「書きたい」という気持ちのことを考えていた。書きたいものがあって、「書きたい」と思っているのではないのだろう。今この文章を書いているとき、文章を止めたくない、続きが頭の中で見えていて、一文一文進んでいこうと思っているとき、私は一番「書きたい」のだ。書きたいものがあるわけではなく、次の文章をただ書きたいだけで、言葉に向かっていきたいだけで書いている。

心から「書きたい」と思っているだろうか?うーん、「書きたい」のか、「書かせてもらっている」のかよくわからない。書かせてもらうためには、書きたいと思わないといけないから、どっちでもいいのかもしれない。

しかし、書きたいと思うから文章が生まれているのは間違いない。当たり前のようなことかもしれないが、「書きたい」と思うことは少なくとも当たり前のことではない。そう思わなければ、一文たりとも生まれることはないだろう。

毎日繰り返すように書いている。なんだか、書く理由を与えてもらったように、ちゃんとテーマを決めて、自分で毎日書くと決めて、それに従っているふりをして、書いている。

が、本当は「書きたい」のではないか? おそらく、心からそう思うことが怖くて機械的に書いているようにしているだけではないか? 文章が生まれているときに、私が感じている「書きたい」気持ちを見つめなくてはいけないのではないか?見つめることで、もっと何か変わったものが生まれるのではないか?

書き重ねる。ということで、毎日書いているのだが、本当に言葉は重なっているのだろうか? なんだか、「書き重ねる」以前に私は戸惑っている。まっすぐ説明に入る前に、どうしてか言葉が逸れていってしまう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!