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脳に”NO!”と言う、noteの記事

自分の脳みそのことを信用していない。一時期、脳トレなるものに手を出してみたことがあるが、効果を実感できなかった。それに、あとから「自分は脳トレしてるのだから」という謎の優越感を抱いてしまっている自分に気がつき、脳力とは果たして何か?とわからなくなり、どうでもよくなり、脳トレはしなくなった。

それっきり、文章を書く方法は体育会系である。「とにかく書け」としか言わない。アイデアとか、デザインとかお洒落な概念もいらない。とにかく書けば、何かが生まれる。アイデアがなくても書け。指が折れたら音声入力で書け。声が枯れたら、足でキーボードを踏め。パソコンが壊れたら、口でペンを持って書け。といった具合である。

だから、よく考えたら私は人に書き方を教えるなどと言うことはできない。ひたすら書いて、書きたい気持ちを湧き上がらせることぐらいはできるか。あるいは、書くこととは結局、謎の儀式なのだと絶望させることぐらいはできるか。

脳の話に戻ろう。人間の体のことはよくわからないが、やっぱり脳は神経の塊にすぎないのではないかと思う。何かと、脳が人間の一番大切な場所だと思われている節があるが、よく考えると、手の信号や足の信号、その他の体のパーツから返ってくる刺激を取りまとめているだけである。それは、脳だけが偉いのではなく、信号を発している手や足があってこそ脳が機能している。

脳とは、道路に例えると交差点のようなものである。その道の先には、それぞれの体の場所がある。刺激がその交差点に忙しく往来している。町に例えたら、少し変だ。真ん中に交差点があり、別の店に行くためには一回一回そこに戻ってこなければならない。それは不便だろう。実際、タコのような生物は手足に脳に相当する機能が備わっているそうだ。手で感じたことを、手で考える。シンプルだが合理的に聞こえてくる。

人間の脳は一人の偉い人がいて、手足は子分のようにそれに従っているような形だ。もちろん、それなりの働きはする。上の命令に合わせて全体的な動きが可能だし、全体をコントロールするための高度な理性も発達したのだろう。逆に言えば、高度な理性が必要だった。たくさんのものを一気に思い通りにコントロールしようとするならば、あれこれ考えなくてはならない。

だから、脳があれこれしたいと思わなければ私たちは何かに思い悩む必要はなかったのである。全て脳のせいだ。……あれ、「脳力」論に近づいてしまっている気がする。

言いたいことは、タコのようにあれこれ思い悩まずに生きたいということである。そのかわりに、文章を書いている節がある。文体なら、脳の命令から逃れられるのではないか。思い通りにならないし、日々予想もつかない変な文章を生み出してくれるし。言葉という触手で感じ、考える。それが気軽で楽しい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!