見出し画像

ことばのおもみ

言葉には重みがあると感じられる。感じられるが、この画面に映っている文字には物としての重みはない。当たり前だが、光の具合で見えている記号以上のの物ではない。そして、ふだん私たちが話している声に乗っている言葉も、空気の揺らぎ以上のものではない。

しかしそれらには、重さがあって、言葉が軽く感じたり重く感じたりする。それは、実際に重いのではなく、もの的な質量とは別の物差しによって感じとられている。

人の話をよく聞きなさい、と言われる。しかし、「よく聞く」とはその人の口から発される音に耳を澄ませることではないだろう。言葉の音や形式に注意を向ければ向けるほど、その重みが見えなくなる。「よく聞く」とは、むしろ聞かないことなのだ。音を聞くのではなく、音ではないものや聞こえてこないものに注意を向けることなのだ。

例えば「ありがとう」という言葉について。この世の中で発される「ありがとう」は全て同じ意味なのだろうか。誰が言っても同じ「ありがとう」なのか。そうではない。何年も積み重ねられた思いがやっと言葉になった「ありがとう」もあるし、ふとしたときに口をついてでた「ありがとう」もある。皮肉で「ありがとう」ということさえある。

私たちが見ているのは、「ありがとう」ではなくそれを発したときに生まれ出る何かである。「ありがとう」そのものを見ているわけではない。

とはいえ、「ありがとう」という言葉はいらないのかと言われるとそうではない。「ありがとう」とは、魔法の呪文のようなものである。

呪文というと、小さい頃に怪我をしたとき「いたいのいたいのとんでけ」と唱えてもらったことがある。それはまさに呪文である。子供にとって、怪我をすることは、とても理不尽な出来事で痛いだけではない辛さがある。悪いことをしたわけではないのに、痛い思いをしなくてはならない。そこで、傷口に向かって「とんでけ」とやる。それで、傷が治ることはない。しかし、なぜか心が落ち着く。それは、呪文を唱えることで「理不尽な痛み」に意味が与えられたからだと思う。この痛みは、私の元から飛んでいくものなのだと、いつかは消えていくものなのだと安心したのだと思う。

唱えることそのものに意味がある。言葉にするだけで、はけ口のない思いは救われる。「ありがとう」という気持ちが私たちの中に生じるわけではない。言葉にならない気持ちをどうにかするために、「ありがとう」という言葉がある。それは心にとってはとても落ち着くことだ。

心の中の、感謝の気持ちをそのまま相手に伝えることはできない。かと言って、人から何かをしてもらって、心が動くたびにそれに合わせて表現を考えるのは難しい。「ありがとう」というとき、そのそれぞれに私たちは違う思いを抱いているはずである。その度に、「ありがとう」ではない別の言葉を考えたりすることはしない。

そうではなく、「ありがとう」という言葉が与えてくれる形に、私の思いを当てはめていく。形がまずあって、言い難い心の複雑さを受け止めている。「ありがとう」という形に入る思いはさまざまである。ぴったりとはまったと感じる時は、考えることもなく「ありがとう」が口をつくこともある。空っぽの「ありがとう」だけを受け取ってしまい空虚な気分になることもある。ときには思いが溢れて、「ありがとう」では足りないと感じる。

言葉が先にあるから、私たちは言葉にならないものを確かめることができる。とりあえず、「ありがとう」と言ってみることで感謝の気持ちがわかる。いうたびに自分の気持ちが違うことを感じ取る。こんな気持ちも、「ありがとう」に込めることができるのだなと、器の深さを改めて知ることもある。言葉は形を変えないが、そうだからこそ揺れ動く心の形を見ることができるようになる。

痛いときに唱える呪文は、痛いときの理不尽さを包んでくれる器なのだ。言葉の方から、気持ちを包んでくれる時もある。そうして心が形を与えられて、落ち着いてゆく。

言葉の重みとは、言葉の中にある揺れ動く心のことなのだ。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!