2020/12/02

同じテーマで、一定期間書くことをはじめたのはいつだっけ? 先月の半ばぐらいだったから、そろそろ一区切り着く頃だ。それまではとりあえず、離陸のための助走だと思って、色々やってみることにする。

書き重ねることで、どんなふうに変わったのか。振り返ることもその中に含まれている。「書くこととは何か?」それについて毎日書いてきたとも言える。だから、「書くこととは何か?」と書くことの影響も、文章には組み込まれている。

毎日、同じテーマで書く、と決めたのは心理的にも私は楽だった。書く際に何かを探したり、何かの気配を嗅ぎ分けたりする必要がなくなった。自分が自然に書き始めたものを信じて、進めばいいだけだったからだ。もちろん、それが迷いのなさにつながって、戻ることができない間違いをしてしまっている可能性はあるだろうけれど。でも、今のところ私は変わるがままに変わっていきたいと思っている。間違ったら、それでもいい。

書いたそばから、変わっているのはわかる。昨日書いたものは今日見返すと信じられないことを言っているように見える。書いたものは自分が脱皮した抜け殻のようで、私に必要で、必然だったものだけれども、今の自分とは切り離されて独立している。さらに面白いのは、私から自由になって好きな場所へ歩いて行ったりすることもある。彼らを、コントロールしようとして押さえつけるよりも、勝手にさせたほうがいいのだ。楽だ。脱ぎ捨て、着替えるように私は今日も変わっていく。言葉があるから、実際に書くから、変わっているのかもしれない。今まで書いてきたものを踏み台にして、その反作用で私は進んでいく。光のように、文章と文章の間を私は散乱していく。それを追いかけ、また次の文を書き、そこから生まれる様々なものを、書いているだけで、時間は尽きてしまいそうである。書くことについて書くこと、それでテーマは十分だ。

文章は、だんだんと豊かになって、取り止めもなく広がっていく気がする。書き始めた時よりも、ふくよかになった。単純に文字数が多いし、書くことも肉感のようなものが伴うようになった。私が考えていること、特に実際に起こったことを書いているわけではないのだが、物理的、図形的、映像的なメタファーが思い浮かぶようになった。

言葉の力を制限している。あまり、複雑な意味を持った言葉を使わないようにしている。さっき、「物理的、図形的、映像的なメタファー」なんて書いてしまったけれども、好みではない言い方だ。「的」とつけることで、それがなんなのか、言葉の中に閉じ込めてしまっている。「メタファー」なんて言ってしまうことで、よくわからない霧の中に、言葉を投げ込んでしまっている。

動きや、形や、景色。そうしたものを描こうとする言葉が、不完全ながらも私を、書くということを、本当にここで起こっているものとして、私の目の前に立ち現れる。それは、ささやかではあるけれども私だけに起こったものではなく、どこかにきっと共鳴している。言葉がここにあること、考えようとすればそっと私の目の前に現れてくれること。初めからここにあったかのように、受け止めてくれること。それが、いっそう私の目の前にありながら、言葉がどこかに続いているという気配を強めている。

その間を進んでいく。歩くでも、走るでもなく、書くことによって。言葉の広がりを旅するのには、実際に自分で言葉を一つ一つ踏みしめてみるのがいい。それが、人によっては、「読む」ことだったり「語る」ことだったり、「書く」ことだったりするのだろう。私にとっては、たまたま「書く」ことで旅をするのがすきだっただけだ。

散歩をしていると、どこに向かって歩いていたのか、忘れてしまうように、私もいつの間にかテーマを忘れてしまった。だから、タイトルは日付だけにする。多分、「無題」というタイトルも相応しくないし、「随筆」という形式も相応しくない。タイトルを付けようとしていないから、「無題」というぽっかりとした穴は空いていたい。むしろ、日付だけで満たされた気分になる。それだけで、私はどこにでも行けるような気がする。だから、ここで生まれる文章はこれから私が書くかもしれない可能性の一つとして、ちゃんと顔を出してくれていると感じる。それは、私が「随筆」を書く、と選択したからではなく、私が書くことに問いかけて、今日の気分で、言葉が返事をしてくれた偶然なのだ。だから、明日には、フィクションを書いているような気がするし、詩を書いているような気もする。わからないけれど、そこに言葉があるという肉感だけは感じている。

そうかもしれなかった、かけがえがある可能性の一つとして文章を書くことは、軽やかに、私を自由にしてくれる。脱ぎ捨てるように書く。書いている私は気持ちがいい。ぽとり、ぽとりと、言葉は落ちていく。足跡のように残っていく。それは確かに、この世界に残された痕跡ではある。そういう意味では、かけがえがなくて取消し用のない私が生きてて書いてしまった記録でもある。

しかし、夢中で書いていると、現実感はなく、夢の中でふわふわと一人語っているような気分になる。しかし、感情や、言葉の意味や文章が向かおうとしている方向は生々しく、感じる。感覚器官もないのに、どこで感じ取るのだろう? 本当と嘘と、具体と抽象、必然と偶然が交わる所に書くことで赴いている気がする。書き終わると、全てが電源を切るように、いくべき所に向かっていく。これ以上ない確かさで、文章という形で、私の前に現れる。書く前は、とても柔らかかったのだが。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!