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Day 18 : チケット

私の手元には丸いアナログタイマーがある。15分経ったらゼンマイが音を立てて定位置に戻る。

私は家の中の音を聞く。クローゼットにこもって文章を書いている私。

三猿を書き始めたとき、ハードボイルド小説にしようと思っていた私。

結局、目に余る「自分語り」が横溢するメタ小説を書いてしまった私。

コントロール不可能な文体。そもそも、抑制的な文章を書く事に拘らなくてもいいのかもしれない。

何度も夢を見て、諦めた。

夢を見ることは、諦めることなのかもしれない。

「ユメ」

そう一言いうだけで、別の世界のことを書き表す事になる。

いや、夢はこの世界の中にあるのか。それとも、この世界とは別の場所なのか。いまだによくわかっていない。何度も考えるが、いまだによくわかっていない。

……というような独り言は全て書くことの準備練習に過ぎない。

全て消したっていい。

私が書きたいのは、文章ではないのだから。

「書こう」

と思うと、そこに残るのは「書くこと」じゃなくて「文章」だ。体の動きではなく、画面に表示された温度もない黒い文字の列。肉体と心が踊る軌道ではなく、ただの記号が画面に表示されるだけ。だから、ひたすらに空い。ひたすらに、私は書き続けなければいけない。と思う。

だから私は、過去に囚われたくなくて、そして真面目に「表現したいこと」を形にすることを諦めて、運動の世界に入ろうと、透明な膜に突進する。それは突き破れたかどうかもよくわからない。薄く見えない膜だ。

しかし、確実にそこにある。書くことと、書いていないことの間には何かがそこにある。それを超えるのが一番、難しい。越えたかどうかもわからない。どこにいるのか。この言葉は、どこにあるのか。

コーヒーの匂い。

まだ人がいる都会の景色。

カフェの窓際の席に黄色いジャージの女が座っていた。手にはスマホが握られている。親指で何やら文字を打ち込んでいる。フリック入力。指を置いてはスライドし、また離して別の場所にスライドする。

わた

わたし

私は

私はね

私はねく

私はねくた

私はねくたい

私はネクタイ

私はネクタイに

私はネクタイにこ

私はネクタイにこだ

私はネクタイにこだわ

私はネクタイにこだわり

私はネクタイにこだわりが

私はネクタイにこだわりがあ

私はネクタイにこだわりがあん

私はネクタイにこだわりがあんね

私はネクタイにこだわりがあんねん

私はネクタイにこだわりがあんねんで

私はネクタイにこだわりがあんねんで。

一文字一文字、文章が出来上がる。ここまで書いて、舞はコーヒーに口をつけた。彼女はただ携帯のメモをネタ帳として使っているだけであるから、そこに文字が並ぶことになんの感傷も覚えない。

朝早くは、このカフェに行ってネタを作る時間、という事にしている。なんだかそうすると自分のお笑い芸人というアイデンティティが保たれるような気がする。

仕事のない芸人はその間にアルバイトを入れて生活費を稼ぐのだが、舞はグレート松村の教えにより、朝の一時間を創作活動に使う事にした。

「笑いには世界を変える力があるで。」

家のビデオテープのグレート松村は、某プロフェッショナルがインタビューを受ける番組で、そう言っていた。この世界では知る人ぞ知る、伝説的なお笑い芸人である。

「ああ〜つまらんつまらんつまらん!」
女性の声。

舞は口をつぐむ。

ステージに太った丸い体がのっしと上がってくる。舞は、耳と脳の回路の接続を遮断しようとする。

「だから、今更、1人漫才なんか通用するわけねえだろ。」

口臭。香水の匂い。汗の匂い。目の前には、観客のいない席。マイク。

「あんた、自分のことおもろいと思ってんの?」

舞は、深呼吸する。

「思っとらんで。」

前を見たまま答える。

「ふざけんな。自分で面白いと思ってないならやるな!」
「……自分でおもろいと思ってたらええんか」
舞は横を向く。横には白く化粧が塗られたマネージャーの顔があった。怒りで汗ばんで、目は醜く歪んでいた。
「はあ?」
「……私が自分でおもろいと思って芸をしたら、大変な事になんで。ええか?」
「知らねえよ。やってみい。」
「わかった。」

数分後。リハーサルの舞台の上には、笑い疲れて意識を失う舞の体があった。

マネージャーとスタッフはそのまま、舞をほったらかしてどこかに行ってしまった。舞は、バナナの皮のように四肢をぶちまけてただ舞台の上で目を閉じていた。

最近、そんなふうに芸をすることに躊躇いがなくなってきた。むしろ、そうするしかない。

舞は目を開ける。

すると、目の前にはもう一つの顔があった。男の顔。眼鏡をかけて清潔に刈り上げた頭をしている。舞が一番嫌いなタイプだ。しかも、彼はお笑い芸人である。

「なんや、トレンディ。」

「津込さん。起きたんですね。」

「見るな、変態。」

舞は目を擦って、急に立ち上がる。頭を持ち上げるついでにトレンディに軽く頭突きをする。

「イタタッ!」

舞の不意打ちを喰らい、トレンディが悲鳴をあげる。舞はそのまま舞台から飛び降りて出口に向かう。

「津込さん!」

痛みから立ち直ったトレンディが叫んだ。舞は、ドアに手をかけたままふり返る。

「舞さんが、輝ける場所ありますよ。」
トレンディは、鼻血を手で押さえながら清潔な風に笑った。



「暇だ……。」
石田がつぶやく。

『暇だ。』
ハルがPパッドに表示する。

ボクだけがゲームに夢中になっている。

「いいよなあ、お前は、いつもやることがあって。」
石田がボクに話しかける。

「まあね。」
ボクはタメ口で答えて、さらにゲームの操作を激しくする。かちゃかちゃという音が事務所に響く。

ボクのゲームの操作音は、事務所の通奏低音だった。ボタンを押したときの音は比較的高い周波数の音なのだが、「通奏低音」と言ってもよかった。

「今日はツッコミがいねえから、静かだな。」

石田の言う通り、舞が来るまでの三猿は静かで平穏そのものだった。

ここにいる三人は、ほとんど会話をしない。する必要がない。

石田はいつも昼寝をしているし、ハルは1人でどこか明後日の方向を見たままぼーっとしている。ボクはゲームに熱中している。

だから、初めて事務所を訪れた人はこの部屋は時間が止まっているかのように感じる。ただ、ゲームの音だけがかろうじて彼を時間がある現実に繋ぎ止める。その役割としての通奏低音。

「くるよ。」

ボクはそう呟いた。

そう呟いた15分ほど後に、事務所のドアノブが動いて、ため息と共に舞が入ってくる。茶髪と黄色いジャージは、化学反応のように瞬時に事務所の空気の色を変える。

「ぐわーー、今日も最悪だったわー。」

舞はそう言いながら空いているソファに座る。どすんと空気を押し出すように腰を落とす。

「お前、いつもそればっかりだな。」

「そうか? 今日は最悪だったけど、昨日は知らん。」

「知らんから、俺が『いつもそればっかりだな』って言って、お前をキャラ付けてやってんだろうが。」

「はあ? いらんお世話や!」

舞は事務所に声を響かせて、ツッコむ。初めは威圧的に聞こえるが、ハリのある声は聞いていてうるさい感じはしない。

『舞さん、めずらしいですね。』

ハルがPパッドに表示する。

「そうやハル。そうやって、アタシを立るのが正解や。」

舞はふんぞり返る。すると思い出したように、「これあげるわ。ちょおまってて。」とジャージのポケットをまさぐる。

『飴ちゃん?』

「いや、飴ちゃんじゃない。チケットもろたんや。」

舞はピラりとポケットから青い紙片を机に広げる。

「なんだこれ。」

石田が気にするのをよそに、舞は強引に押し付けるようにハルの手に一枚チケットを持たせる。ハルは従順にチケットを受け取る。

そういえば、毎日変わるハルのコスチュームを記述し忘れた。今日は、黒いドレスに髪をバッサリ切った白と青のグラデーションのショートカットである。ドレスはタイトに体のラインを強調する。人形のように、舞のなされるままに、手にチケットを握らされる。

「狛犬劇団ちゅう舞台の招待チケットやて。友達からもろた。」

舞のいう「友達」とは、トレンディのことである。彼が舞の去り際に「一緒に行きませんか?」とチケットを渡してきたのだ。

舞は、その時に嫌悪感と吐き気を覚えて拒絶しようかと思ったが、いいことを思いついた。

「友達も誘ってええ?」
「別に、いいですよ。」
トレンディは清潔に笑って答えた。

「お前ら全員分あるから、行こうや。おもろいらしいで。」


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!