自己非同一性
自分は常に自分ではないという性質がある。昨日の自分と今日の自分で確かな物を探そうとするが見つからない。それでいいのだと、思えるようになったのは最近のことかもしれない。いや、納得したわけではないのだが、それで仕方がないのだと思うしかない。
自分をどこまでも分解したら、何が残るのだろうか。と考えてみる。もしも残らないのであれば、少し嬉しい。それは、私は常に新しく常に変わっていけるということだからだ。後は、それを受け入れる心だけが肉体に入ればいい。それを受け入れる心もまた、移り変わるものに合わせて変わっていく。
何も定めないでいることは、何かを定めることよりも気が楽だ。どうせ何かが定まるのだから、と指を置く。何も定めないでいるというよりかは、何も定めようとしないことなのだ。指が文章を書いて、肉体が生きている。人生を送っているのは、私の体であって、私ではない。ともすれば、人生というのは脳の中で現れた概念であって、人の世は夢の如しというのは的を射た表現だろう。
捨てることは難しい。人は過去を捨てなければ未来を生きられないはずだが、またしても概念の魔力で過去を未来に引き摺り込む。どうして、昨日と同じようなことをしなければならないのか。宇宙の法則にはそのようなことは書いていない。私たちの頭の中にあるルールに則って、私たちは今日も「おはようございます」という。
一枚一枚そうした人工的な物を、脱ぎ去っていった先には何が残るのだろう。何も残らないならば嬉しい。なぜなら、私たちが生きている世界はいかようにも変わりうるということだ。どんなものも受け入れるということだからだ。後は、その世界に移り変わる精神が入るだけである。そんなものもいらないか。
自己というものもいらないか。私というものもいらないか。
ただ、何かをしていればいい。ただ、書いているだけに安楽を覚える。書いているときは、言葉になって私は対象と一つになろうとする。だから、書いているときは私は消える。書いていればいい。書くことが、書くことを呼んでくれる。言葉が言葉を生み出す。私は脳の外で考えている。
自己の同一性という物を何故に人は求めるのだろう。私が昨日と同じ私でないといけない理由がどこにあるのだろう。責任を求めたいから? 意味を求めたいから?確かなものが欲しいから?
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!