2020/12/03

書きたい。気持ちよく書きたい。だから、書くための言葉も変えたほうがいいのではないか……。と実験をしてみた。昨日のことだ。

まず目の前に起こっていること、今考えていること、感覚していること、思い出したこと、湧き上がってくるそれらを次から次へと言葉にしていく。

単純なことをしようとしたが、単純にうまくいかなかった。どれだけ書いても、頭に生まれてくるものに言葉が思いつかない。

私は、細やかな言葉が欲しかった。どうして「書くことについて書くこと」ばかり書いてしまうのだろう。もっと具体的、もっと感度の高い言葉を書けば、楽しいのではないか。まだまだ純粋に「書くこと」に迫れると思っていた。だから、書く言い訳のように、「書くってなんだろう」と考えずに、真っ直ぐに向かえる言葉が欲しかった。

それは、普段語っている言葉よりも細やかなものだ。毎日同じ部屋で、同じような文章を書く。そうした日常のささやかな違いを感じ取る言葉が欲しい。ささやかさの中に宿る違いを見つける言葉が欲しい。

そうして、今自分の中に起こっていることをひたすら書こうと思った。絶対にプライベートなことが入り混じるから、人に見られないところでやろう。そう思って、いつも使っている手書き用のノートを開いた。

これは、note以外にも色々文章を書きたくなった時に使っている物理的なノートだ。縦書き、手書きで万年筆で書いている。万年筆は変えたことがない。折れたことがあるが、接着剤で直した。

書き始める。まず、文字が書かれていることに興味がいく。だから、「線がある。」というように書いた。書いたそばから、ノートに文字が浮かび上がってくる。だから、「線が形になる」。そして、言葉を生み出す前に頭の中でその言葉を話す声が聞こえていることに気がつく。「静かな声」。そして、さっきまで話していたこと、日々の記憶、笑っている人の目、髪型……と想起されるイメージが膨らんできた。なんとか手を早く動かしてそれを捕まえようとすると無理だ。

早いどころか、同時に二つ生まれたりする。

そして、そのことに戸惑う自分。「同時に二つ考えが出てきた場合、どう書けばいいのだろうか。」しかし、そう考えている間にも、イメージは止まることはない。「文章は一つしか同時に書けないから、二つ現れてしまった場合、どちらか一つは諦めなければならないのだろうか。」書きながら考えているから、考えにはまってしまうとそこから抜け出せない。論理的に展開してしまう。その間に戸惑いの間から記憶が漏れ出す。さっきまで頭の中に留めておこうとしていたものは次第に忘れ、忘れたことを思い出そうとすると言葉が止まり、「戸惑っている自分」が、また何かを考えようとして、手を止める。その間にも支離滅裂な記憶やイメージ、どうでもいいことが頭に思い浮かばれる。

これは駄目だ。楽しいどころか、不可能じゃないか。

そう思って、普段の書き方に戻った。普段と言っても、何も考えずに普通に書いてみることにした。

不思議なことに、そのやり方に戻ると心は落ち着いていった。言葉を書いて、その間に何かを考えて、言葉を書く。その間にまた何かを思いつく、そしてまた言葉を書く……。そんな単純な繰り返しが、歯車を回すように続いていく。

頭に思い浮かぶのは文章の一つの線で、同時に二つに分岐することはない。意識は次の文を生み出すことに集中しているから、余計なことを思い出すこともない。むしろ、文章という一つのものに集中することで、余計なことを意識から外しているかのようだった。

そして、文章に集中すると今度は文章にならない何かが起こっていることに気がつく。背景の中に、煙のようにもやっとした気配。それが言葉にならないもの。それが私が感じているものだと気がつく。そして、その言葉にならない物を動力にして文章の線は続いていく。

それは、何も考えないことではなく、逆に身の回りに起こっていることをひたすら書き起こしていく単純な記録でもない。「書く」という特別な精神状態なのだと理解した。文章を書くための集中。そして、その集中から生み出される言葉にならないもの。

書いているときは、言葉に集中するから、言葉にならないものが湧き上がってくるとすぐにわかる。言葉に集中して、言葉にならない物を感じ取り、その感じや心の動きから、次に書く言葉を書く。打ち込んだり手を動かしたりしている間に、また言葉にならないものは浮かび上がってくる。それらを「言語化」しているわけではないのだが、なんとなくそれに押し出されて次の言葉を書いている。

そのリズムが循環して、安定した精神状態を作っている。循環しているから安定している。ただひたすら自分の周りに起こっていることを書いているのとは違う。自分の周りのことを書き始めてしまうと、意識は散逸してむしろ「書く」ことは脆くなる。手を止めると書けなくなる、書く以前に記憶や感情に引っ張られて書けなくなる。

しかし、一旦文章に集中すると、言葉も言葉にならないものもそれぞれの居場所を見つけ、生き生きとしてくる。言葉を書いている間に、言葉にならないものは自由に動き回る。その自由さを、追いかけるのではなく、自由なまま見つめている私がいる。そうして、文章を書く。書けなくなったら、動いているその言葉にならないものが背中を押してくれる。だから、ひたすらに文章を繋げることだけを考えればいい。その方が、雑念も少なくなる。

何らかのサイクルが回っているのか、途中で漕ぎかけたギアがその場所で止まるように、手を止めてもつながりを見失うことはない。だから、席をたったり、音楽を聴いていたりしても途中から書き始めることができる。進んでいたものが逆に戻ることはない。しかし、集中して書いていると段々とペースが作られて言葉と言葉にならないものの循環がスムーズになる。自転車と同じで、力強く踏むよりも同じペースで漕ぐと良い。すると楽な心地で、進み続けることができる。

今までは、書いた後に直すことはなかったが、そのペースを掴めば、考えの途中に後から手を加えることもできそうだ。言葉にならないものは常に根底に流れているから、それをもとに流れや解像度を上げる……すなわち文章を書き足すこともできる。また、逆に文章を削って意識を飛躍させることができる。そうすると、詩のようにいっそう言葉にならないものが言葉を繋いでいることを目立たせることができるだろう。

文章の中にもペースがある。きつい坂を登っている時も、平たいところを走っている時も、何もしなくて進んでいく時もある。また、ジャンプするようにぴょんぴょんと跳んで行くこともある。言葉の流れ具合を見るとそう感じる。

長い文章が流れるように落ちていくこともあるし、短い文章を飛び石のように配置することもある。

結局、思ったことをそのまま書く、起こっていることをそのまま書く、のはある意味で正確ではない。本当に「そのまま」書くとしたら、私たちの心はあちこちに飛んでいって、「書く」という行為もままならない。

だから、「そのまま」書くというよりかは、書くための特別な精神状態でその世界を作り直していることに近い。瞑想であっても、ただ目を閉じているだけでは内容に、「書く」ことは言葉にすること、言葉にならないものをうけいれる特別な態勢であるのだろう。

これはもちろん、私が書いている間に勝手に身につけたものだとおもう。書くことに長く集中できるようになって、また言葉にならないものにどうやって反応するのかを自然に練習していた。だから、言葉を生み出すことと、言葉にならないものから感じ取ること。それを物理的に「書く」動作を通して循環させている。

これで、手書きとパソコンに打つ時の覚の違いを説明できる。それは「書く」動作にかかる時間や、間が異なるからである。おそらくパソコンで打っていると、書く動作にかかる間は短くなる。言葉にならないものよりも、言葉として具体的に現れるものが有意になる。文字数は増え、論理的な文章になるだろう。あるいは、ひたすらまくしたてるような、あるいは流れるような文章になるだろう。反対に、手書きでは書く時の動作にかかる時間が長い。そこから、言葉にならないものが豊かに感じられることになる。しかし、書いているのであるからここでも言葉そのもののほうが僅かに優位だろう。書いて、想って、書いて、想う……。というリズムが刻まれやすいのではないだろうか。これは歩くことに似ている。

詩はどうだろう。短い言葉を、何日もかけて考えたりする。そうすると、言葉にならないものが遥かに言葉の量を超える。私たちは、詩の言葉に「飛躍」を感じる。

私にとって書いていて気持ちがいいこととはどんなものだろう?

この発見から、考えてみる。

まずは、言葉にならないもの、そして言葉に任せてとにかく集中すること。次の一文を書くことだけにひたすら集中すること。それが一番、それに尽きる。そうすれば自然に言葉にならないものと、言葉のバランスが取れてくる。書き方によって、感じ方が違うことを心得る。言葉にならないものに集中しすぎるのではなく、あくまでも書くこと。そうしたら自然に、書きたいことが浮かび上がってくる。

感覚的な記述になってしまったが、泳ぐことや自転車に乗ることのように書くことも体で覚えているからだとおもう。そうしたら、何かを忘れても書くことは忘れないかもしれない。書く内容を忘れても、「書く」ことはできるかもしれない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!