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自分の外側で書く

元々、発表とか、表現とかには自分の内側にあるものを外側へ、というベクトルがあるように思える。だから、たくさん表現するためには、たくさんの知識や経験が伴っていないといけないという話になる。そうなると、書きたいと思う前に、まず読まないといけなかったり、周りくどいやり方で表現まで辿りつかないといけない。

だとしたら、初めから自分の外側で書いてしまえばいいのではないかと思う。いきなり、道の真ん中にオブジェを作り始めてしまうようなものだ。そうしたら、それを作っている過程から、表現は始まっている。これが自分の表現である、と囲い込まずにもう初めから自分の外側で作業をしてしまう。そうしたら、何ができようとそれが自分の表現である。表現する価値があるのかどうか、悩んでいるよりもすぐに白黒がつく。そして何より、書き始めることができる。

たくさんのことを知っていたらたくさんのことを書くことができる。それはそうだと思うけれども、たくさんのことを書いたら、たくさんのことを書くことができる。というのも当たり前のことである。読んでから書くのではなく、書くこと自体から経験を得て、次の書くことにつないでゆく。いちいち材料を仕入れるのではなく、もうその場にあるものだけで作ってしまう。体を動かしたら動かした分だけ、ものができる。そのほうが、面倒くさがりで飽きっぽい私には合っている気がするのである。

そもそも表現はなんのためにするのか。それはきっと、表現することで何かを得たいからである。だから、何かを得なければ表現することができないと怖気つくよりも、表現した方が何かを得るのには手っ取り早い。一つ文章を読むよりも、一つ文章を書く方がずっと自分のためになる。それは自分のための考えであり、自分のための言葉であるから。書かれた文章には、一片の無駄もない。誰が書いた文章よりも、あなたが書いた文章の方があなたにとって役に立つ。

そうであるなら、なぜ人に見せるのか、表現するのか。という問いに戻ってくる。だとしたら、自分一人でノートにこそこそと書いていればいいのではないのか。確かにその通りである。そしたら、誰の目を汚すこともなく、自分のために心置きなく書くことができるではないか。

どうしてだろう。いまだにうまく答えられない。私はこの文章を誰かに読んでもらうことで、どうしたいのだろう。わからないまま、書いている。

もしかしたら、それを問いかけたいから、書いていると言えるかもしれない。自分一人で書いていれば思いもしない問いかけであろう。もしかしたら、私は私の外側で書く、ということのさらに外側にも行きたい気がする。読まれることすらも、巻き込んでその関係性の外にいきたい。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!