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書く快楽

言葉にされると、人は喜んだりやかましいと耳を塞いだりする。ある時には言葉にしてくれてスッキリしたと思う時もある。耳にタコができそうな言葉には辟易する。それは、人の言葉に対する独特の反応である。少し考えにくいかもしれないが、言葉にされてスッキリする感じは言葉でしか味わえない。うるさく言われたときの不快感はなんとも独特な感じがする。相手の方は言葉を仕向けてくるのに、自分は言葉にできないのだから余計にイライラする。

言葉にすること自体に、質感がある。言葉には当たり前に意味が付随しているように思える。「ここにリンゴがある」その言葉は、当然、ここにリンゴがあるのだ、という意味をなしている。そして私たちはどこかに置かれているリンゴを思い描く。

その時点で、言葉を思い浮かべなかった瞬間には戻れない。だから、リンゴがそこに置いてあることと、「ここにリンゴがある」という言葉そのものの違いは見えなくなる。そして、「ここにリンゴがある」という意味を受け取ると、私たちは言葉のことを忘れて無邪気にリンゴのことを思う。

言葉の質感に触れるということは、言葉から意味に移り変わる前に少し立ち止まることである。「ここにリンゴがある」その言葉が意味を作り出す瞬間に目を向け、意味と言葉の繋がりをもう一度確かめ直すことである。それはよく知っている食べ物の味を、もう一度丁寧に味わうことに似ている。言葉の意味は、私たちにとって当たり前なものである。そうでなければならない。日々、滑らかに言葉を運用するためには、当たり前である必要がある。しかし、言葉の質感に立ち返るということは、当たり前が当たり前でなかった頃を思い描くことである。

である、で踏み込む。しかし、で身を翻す。例えば、で新しい景色を見せる。すぎない、と言って突き放す。いかにも重々しいといわれ、堅苦しい言葉が好きだ。いかにも、書いている気がするからだ。ですます調にはいまいち乗れない。子供かカレーライスやハンバーグが好きなように、わかりやすく書いている雰囲気を醸し出してくれる、彼らが好きだ。

文章を書く快楽とは、言葉のリズムに乗る快楽である。誰にも邪魔されず、口がもつれるのも気にせず黙々と言葉を並べてゆける快楽。排泄する時の安堵のような原始的で個人的な快楽である。

見るための感覚や、聞くための感覚があるのなら、言葉のための感覚があって良い。書くことの快楽は形而上のものではなくて、この体で感じているものである。

あくびをしている人がいたら、あくびをしたくなる。書くこともそこまでいける。書くことの快楽は、書き手だけのものではないはずだ。私たちに備わっている言葉の感覚が、書くことに反応する。書いている人を見たら、書きたくなる。だから、読む喜びは書く喜びであり、書く喜びは読む喜びである。そしてそれらは言葉それ自体の楽しさとして一つに結びついている。

それでいいし、それぐらいがちょうどいい。拍手喝采を浴びるためでもなく、感情的になってくたびれることもない。書いている感覚をそのための感覚で味わっている時、それでもう書くことはじゅうぶんに完結している。書く快楽はここにある。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!