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世代という嫌うべきものに対して

ニューエイジは鮮やかに僕らの日常を牽引する。

僕らはコロナを超えた
絶対悪と絶対正義のないところ
親しい友達とどうでもいいところで意見が違い
親の言うことも納得できず
このまま大人になる無色の想像に不安になって
日常の当たり前に深く感謝するようになった。

くだらなくない
くだるな

このまままっすぐ歩いていく
が色を持ったり、色をなくしたりする
色が侵されテクスチャとレイヤーが個性の位置に停泊
スタイルは問題じゃなくなった
なんとなくかっこいいになろう。

スタイル、色は古臭くて硬い
どこかの国、宗教に染まることも
つまらなくなってきた
色を着ないと自分を見れないなんて
視点が中心に集められた映画のように退屈だ
オッペンハイマーもそうだった

背景が常に問われている
どこからきたのか
拠り所としての信仰は
大変空虚に宗教から手放され
今や家庭すら怪しい
俯きながらひとり寄りかかる土壁から
等身大の想起をしてみたい
常に科学は想像力


厳密に規定された自然科学の研究所において
一つの奇跡が起きたが、
再現不可能を持って、STAP細胞はないことになった
今までではありえない科学を世間は認めなかった。
無菌室のような
厳密に規定された私の今において
一つの奇跡が起きたが
再現不可能を持って、あなたの優しさはないことになった
今までではありえない想像力を世間は認めなかった。

再現可能性は解像度の問題であり、
いかに知っているかである。
未科学を切り開く動作は、意図せず君もやっているだろう。

ヨーロッパ史を学ぶと、中世ヨーロッパ→近代のあたりで、
人の信仰が、宗教から科学にうつる様相を見ることができる

ものすごく冷たい時代だった
信仰、献身が当たり前、領主に農奴として使われて
教会に集まるのは当たり前だった。
それから宗教も受容し変容の時代に
科学が確かな力を得てきた。
それからいく世紀
あまりに大きくなった機械はブラックボックスとして
人々の信仰を集めるようになった。
資本主義経済の上に咲く科学技術が宇宙開発という信仰や
物理学の発展によって原子爆弾が発明された

1960年代ごろ
ニューエイジ・ムーブメントの風はサフラン色
ベトナムの土の下

科学は受容を迎えたように思う。
個人主義の拠り所としての信仰を、
その個人の研究の程度に応じて科学にすることを方向づけた

イデア的に持っている理想、こうあるべきであると言う今日
あるいはスピリチュアル的に言えば、宇宙が内面にある。
それは、与えられ育てた信仰であり
どこからきたかを示す背景であり
どこへいくかのデッサンである。

大人の引く線や、描く絵には共感できることは少ない
内面の線と違うから。

世代と呼ばれた僕らの共通項は、
年齢じゃなくて
鮮明なドキュメントとしての今日を保持していることだ
コロナは、経済が止まって大変だったんじゃない
コロナが僕らに理不尽であり、その中で必死だったからきつかった。
幸せを科学するんだ
科学は想像力だ

ニューエイジ、僕らの個人的な科学の日常を鮮やかに牽引する




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