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生活と拠り所

愛するレレレのイベントに参加できるなんて!

安田純平氏を招いてトークショーをする。
2時間、持って帰れるものをすべて持って帰る。

こんなに祈りを捧げても
神様は俺を救ってくれない
くそみたいな日々から掬い上げた
僅かな喜びを糧に息をするのはいやだ
徐々に締まる首を引っ掻きながら祈る。

安田氏はイラクにて戦地取材をされた
ジャーナリストのような人である。
氏との対話に向けて私の目は生活、
それからその拠り所の宗教、政治に向いている。

端的に私の考えを述べるなら
そこに優劣はない
という言葉から始まる。

イラク戦争に際してバグダッドなどに滞在してた
同氏の著作を読むに、
米軍はもちろんのこと、イスラム教も
戦時のカオスな無政府状態もサダムフセインも
みんな人を殺している。
ここから私見だが、
現地の市民の好き嫌いはあれど、
彼らは生活の拠り所を求め
光が差し込んだら藁にもすがる思いで掴む。
イラクに限らず、すべての市民がそうである
気がする。

封建的な社会は崩れ、田舎特有のコミュニティ
家族の縁すら薄くなっている現代では
誰もが生活の拠り所を求めているように思う。

何かに祈り、誰かを信じるのはやめた
そんな人たちこそ一見不安定な生活の中に
なにが起きても崩れない確かな足場を
持っているのを知っている。

あくまで個人主義であるとか、分断の助長が
したいわけじゃない。
ただ、自分の安心のために誰かが苦しみ
誰かの友は死に、誰かの拠り所は否定され
境界線の外は敵だという状態に
眼をかっぴらいていられるほど僕ら強くないし
だからと言って眼を閉じるのは
強さじゃないよねっていう話。

既得権益から外れた負け組の
虚しい負け惜しみじゃなくて
次の世界を作る若者の
小さな叫び、祈り、怒りである。

戦争反対を叫ぶ声の中に
自分の、一見関係ない主張をするのぼりを見た。
人が集まり叫ぶシュプレヒコールの暴力を
私はこないだまで信じていた。

世代、時代、育ちが違う人と
同じ人生を歩けるわけもなく
乗り合いができればラッキー
かねてから違う世界だなとも思う。

それぞれのスタンスが
共有されたビジョンに向かって再正義されていく
どこかの偶像ではなく、誰かの正義ではない
REBELを歌い、抵抗、連帯していく
反旗主義者たちを僕は
全く別の道をいく、生きている者としての
同志として連帯を示していきたい
俯き、嘆き泣いている膝を抱えた君が
一人ではないことだけ、伝えたい

一人じゃないことが心からわかれば
私は生きていけるのだ。

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