人間らしい働き方、とは

ぼくは、小さい頃から楽しいことが好きだった。その逆に苦しいことが嫌いだった(当たり前かも知れないが)。

だから、「いつでも楽しいことをしていたい」と思った。そこで当然、「働く」ということも「楽しいものにしたい」と思った。だから、楽しい仕事を探した。「働くことそのものが楽しい」というのが、ぼくらしい働き方だと思った。「私らしいはたらき方」だ。

ぼくは、「働く」というのは誰にとってもそういうものだと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。世の中には、「仕事というのは苦しいものだ」と思っている人も多い。「お金のため、仕方なく働いている」という人も多いと思う。

ぼくはしかし、これは順番が逆だと思う。おそらく、誰でもその人が本当に楽しいことをし続けていたら、それはやがて「仕事」になる。「はたらく」になる。その逆に、苦しいことをし続けていると、それはやがて仕事にならなくなる。「はたらく」ではなくなってしまう。楽しいことを仕事にしていないと、そういう状況に陥る危険性がある。

だから、まずは楽しいことを見つけるべきだ。これは、誰が何というと、断固としてそうすべきなのである。もし、「楽しいことを仕事にするのは理想論で、世の中はそんな甘くない」と言う人がいたら、それはあなたを心配しているのではなく、むしろあなたを苦しめようとして言っている。言っている本人は、そう意識していなくても、無意識ではそう思っている。たとえ親でも、それは心の奥底で「苦しめよう」と思っているのだ。憎いからそう言っているのである。

「親が、自分の子供を憎むはずがない」と思う人がいるかもしれないが、この「親から子への憎しみ」は、人間にとってはきわめて「正常な感覚」である。よくあることなのだ。なぜなら、親には子供を憎まずにはいられない、一つの構造的な理由があるからだ。

その構造的な理由とは何か?

まず認識する必要があるのは、そもそも人間のDNAは、一人一人の個人よりも、種全体の存続を願うようにできている——ということだ。人間という種が誕生したとき、そういう「存続方法」を選択したのである。

生命の中には、分裂をくり返す、という存続方法を持つものもある。そういう生命は、「個体としての老い」がない。従って、何らかの事故がない限り、ずっと生き続ける。つまり、個人がずっと生き続けられる。

それに対して人間は、生殖によって生命を「別の個体」につなぐ。親という個体は、子という別の個体を生むことで、種の存続を図る。このとき、子を生んだ親という個体は、永遠の存続を許されない。やがて死が待っている。親が死ぬことも、子の存続の助けになるよう設計されている。そういうふうに「個々の個体を犠牲にして種全体を生かす存続方法」を、人間は選択したのだ。

この存続方法の最大の利点は、「多様性」が生まれることだ。生まれてきた子は、親とは少し違った個性を持つため、個性がどんどん増殖していく。そうなると、天変地異など「環境の変化」に対応しやすい。例えば、ウイルスで死ぬ個性の人がいても、死なない個性の人も出てくる。そのため、人間という種として生き残れるのである。

ただ、人間の多様性が増えすぎることには、一つの弱点がある。それは、人間が多様になればなるほど、そのときどきの環境にマッチする人間と、そうでない人間との差が激しくなる。そうすると、自然と争いが増え、社会が殺伐としてくる。また、競争の激化によって、そのときどの社会にマッチしない人間は生きにくくなり、最悪の場合は死んでしまう。

そんなふうに「環境にマッチしない個体の死」が続くと、同じ特徴を持った人間ばかりが生き残ってしまう。そうして逆に、多様性が失われてしまう。多様性が増えすぎることが、逆に多様性の存続を難しくするのだ。

そこで人間社会では、常に一定の段階で「多様性への歯止め」がかかるようになった。多様性を拒絶する価値観が構築されるようになった。それは、多様性の拡大と、それによる格差の増大、競争の激化と、引いては多様性の収縮を未然に防ぐためだ。

ところが、その「多様性に歯止めをかける」という価値観は、やりすぎるとやはり多様性を失わせ、大元の「多様性を保つ」という目標と矛盾する。そのため、両者の価値観は拮抗させる必要が出てきた。どちらか片方が強くてはダメで、真ん中で均衡するような状態を継続させる必要が出てきた。

そこで、社会はこの二つの価値観を対立させ、常に争いながらバランスを図ることにしたのだ。多様性を求める側と、排除する側が、どちらも自らの考えを主張し、戦わせることにしたのである。

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