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ぼくが『シン・ウルトラマン』を面白いと思った理由

『シン・ウルトラマン』を見てきた。そして、とても面白かった。その面白かった理由を、ほぼネタバレなしで書いてみたい。

庵野秀明さんは、1966年に放映された元の『ウルトラマン』について、「なぜ面白かったのか?」を考え、分析し、理解した、おそらく世界一の人であると思う。ぼくは、そんな庵野さんの「『ウルトラマン』の考えや分析、理解したことを信頼している。もっと言うと好きだし、知りたい。

そして『シン・ウルトラマン』は、そんな庵野さんの考えや分析、理解したこと——つまり「『ウルトラマン』はなぜ面白いのか?」ということの「答え」が提示されているはず——と思った。その答えを移植し、作ったはずだ。

だから、『シン・ウルトラマン』を見れば、庵野さんが導き出した「『ウルトラマン』が面白い理由」も分かると思った。そして、その予想は当たったと感じた。『シン・ウルトラマン』を見たら、庵野さんの『ウルトラマン』を面白いと思ったポイントがいくつも伝わってきた。それが、ぼくが『シン・ウルトラマン』を面白いと思った理由である。

では、庵野さんは『ウルトラマン』のどこを面白いと思ったのか?

ポイントはいくつかあるのだが、ぼくにとって特に印象的だったのは、「科学特捜隊の面白がり方」だ。ぼくは、『ウルトラマン』の科学特捜隊について、庵野さんのように面白がる人を見たことがない。それはどういう面白がり方かというと、「将棋の駒扱いされた人間の、侘び寂びを愛でる」というものである。

『ウルトラマン』における科学特捜隊は、割り切った存在である。普通のドラマとは違って、主役は着ぐるみのウルトラマン。人間の役者は、どこまでも脇役。制作者にとって、将棋の駒のような存在だ。それは、役者にもはじめから分かっている。

科学特捜隊の「将棋の駒感」が端的に表れるのは、彼らのセリフとその芝居においてである。それは、ほとんどが説明台詞か定型文で、芝居は型通りのものだ。だから、そこに役者の個性やスキルを発揮する余地は一ミリもない。

しかし、『ウルトラマン』の役者もそれは分かっている。だから、変に感情を込めたり、アドリブを加えたりしない。個性を出そうともしない。むしろ控えめにし、ただ淡々と、説明台詞を、定型芝居で演じる。そんなふうに、割り切って「将棋の駒」として動いている。

しかし庵野さんは、それこそが、『ウルトラマン』の面白さを根底から下支えしていると分析した。『ウルトラマン』の役者は、役者としてのプライドはもちろん、ある意味人間としてのプライドも捨て去って、ほとんど小道具のような役割に甘んじている。

しかしそれゆえ、独特の不可思議さや、ある種の不気味さ、さらに、犠牲的な尊さを感じさせるようになった。また、個性を消そうとすることで、逆に消しきれない、にじみ出てきたような個性も感じられる。庵野さんは、それこそが『ウルトラマン』の面白さの本質だと思ったのだ。

これは、当時『ウルトラマン』を見ていた子供たちの誰一人、言語化できないのはもちろんのこと、意識すらできなかっただろう。しかし、庵野さんは長い時間をかけて(あるいはその天才ゆえ直感的に)、そのことに気づいた。そして同時に、それがあらゆる子供の「無意識」にも響いていることにも気づいた。

『ウルトラマン』のメインは、言うまでもなくウルトラマンが登場する特撮シーンだ。子供たちは、これを目当てに『ウルトラマン』を見ている。
そうなると、その前段の科学特捜隊シークエンスは、控えめにした方が効果的だ。脇役が控えめであればあるほど、主役が引き立つからだ。

そのため、科学特捜隊を演じた役者たちは、なるべく気配を殺し、なるべく目立たないように、さりげなく物語を運んでいった。変に出しゃばって、子供たちの興をそいではならない。だから、むしろ子供たちに、「自分に注意を向けさせないこと」を目指した。子供たちに意識させない演技を心がけたのだ。

しかし、そんなふうに意識させない演技をすることで、逆に「無意識」に届くようになった。というのも、意識できないものというのは、かえって無意識に届きやすいという性質があるからだ。

それはまさに、「サブリミナル効果」とも呼べるようなものだ。よく、美人はモテないと言われるが、それは美人というのは意識しやすく、多くの人が身構えてしまうからである。その逆に、美人ではないのにモテる人がいる。そういう人は、顔以外に長所を持っているのだが、それが意識しにくいため、相手も身構えにくい。そのためかえってモテやすくなるというわけだ。

『ウルトラマン』における科学特捜隊も、そのサブリミナル効果的な魅力があると、庵野さんは喝破した。それは、いうならば「侘び寂び」の魅力だ。利休は、名もなき陶工が無意識に作る茶器を見て、そこにケレン味のない魅力を見出した。狙ってないからこそ、かえって魅力的なのだ。科学特捜隊の演技も、これと同じ構造だ。狙っていないからこそ、なんともいえない魅力がそこに宿ったのである。

庵野さんは、そのことに気づいた。しかし子供たちは、そのことに気づかない。それで、何の問題もない。むしろ気づかれない方が、無意識に届き、より大きな影響力を発揮するからだ。

庵野さんは、そういう無意識の面白さを、『シン・ウルトラマン』に移植しようとした。だからこそ、役者に説明台詞を言わせ、定型的な芝居をさせたのである。これは予告の中にも出てくるのであえて書くが、長澤まさみさんがウルトラマンを見て、「あれが……ウルトラマン」というセリフがある。これは、シナリオ学校で生徒が書いてきたら、先生に一発で書き直させられるセリフだ。「見たものをそのまま口に出して言う」というのは、映画のセオリーでは禁じ手とされている。

その禁じ手を、一流の役者にやらせることで、庵野さんは『ウルトラマン』の科学特捜隊の「侘び寂び」を、『シン・ウルトラマン』で表現しようとしたのである。

また、そんなふうに『ウルトラマン』では縁の下の力持ちである科学特捜隊に、時折不意にスポットライトの当たる回がある。それは、怪獣が人間と同じサイズになって、科学特捜隊の前に現れるシーンだ。

庵野さんにとって、そういうシーンは大好物だった。なぜなら、本来は縁の下の力持ちで、目だないよう将棋の駒としての役割に徹していた役者たちが、突如檜舞台に上げられて、少なからず戸惑うからだ。その姿に、強烈な「萌え」を感じたのだと思う。

だから、庵野さんは『シン・ウルトラマン』でもそういうシーンを盛り込んだ。しかも、いくつも盛り込んだ。
そんなふうに、『シン・ウルトラマン』の中には、庵野さんが『ウルトラマン』で面白いと思ったポイントが、陰に陽に、実にさまざまな形で移植されている。ぼくは、それを見るのが面白かった。それが、『シン・ウルトラマン』を見て面白かったことの一番の理由である。

今度、「第8回岩崎夏海クリエイター塾」という私塾を開講します。こちらでは、マンガについての議論もしていますので、ご興味のある方は、よろしければこちらの記事をご覧ください。

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