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鉄道の写真を撮りたいのって…?

noteを始めてみました。飽き性なのでどのくらい続くかは分かりませんが、形から入るタイプなのでとりあえず登録して文章を考えてます。
自分の考えをとりあえず文字に起こして残しておくのにTwitterだと足りなかったり目障りだったりすることもあるので、能動的に足を運んでくれる場所に残しておくことにします。

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自分は15年くらい鉄道の写真を撮り続けている、というより15年も続いてしまってます。撮り続けていることには理由はあんまりなくて、鉄道が好きだからで、Twitterで人が撮っている車両が気になって撮っていることが大半かもしれないです。

最近は、鉄道以外のジャンルの写真を少しながらも拝見したり、気になった写真展に行くなど、今の画作りをレベルアップしたいという思いで写真を見てます。そうやって人の写真を見ていく中で、心の中にもやもやっとした思いが湧いてきて、なんなんだろうなと思ってました。
多分なんですが、「自分」の写真、というものが見当たらないんです。

「自分」の写真、というか「自分の気持ちで撮った」写真です。
俺が撮っている写真なんだから自分で撮った写真、っていうのは紛れもないんですけど、それは物理的な話で、問題は気持ちの問題。
どうしてそう思ったのか、理由はいくつかあるんですが、主な理由は2つ。

1つは、見る側の気持ちで撮影するから。
クライアントからの要望に応えるならこういう意識を持った方がいいのかもしれませんが、それは一旦置いておいて。
自分の撮影のルーティンとしては、インターネットで見つけた他人の写真に触発されて、その憧れを持ちつつ撮影に出向き、成果物をTwitterにアップするというもの。このルーティンが身に付いているので、撮影中はTwitterにアップすることが前提になり、他人に受けの良いシーンを考えがちになっているのかと思います。
自分の目、気持ちが信用できず、無難な選択しを選んでいる自分がいることは正直最近は何度も実感しています。
架空の自分の写真を見た誰かに、修正をされている感覚です。
自分が感じたことは二の次になりがち。

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2つ目の理由は、普通の写真に飽きているから。
普通の写真というのは、鉄道写真で言う「編成写真」が主な例で、自分の好きな鉄道の車両が大きく写っている写真です。上の写真みたいなやつ。
これ自体は別に悪いことじゃなくて、これからも撮り続けるんだろうけど、それに飽きている自分がいました。
後、割と「撮り鉄」界隈でよく言われる「コピーカット」というワードに嫌気が差して、他人と同じ写真を撮りたくなくなったのも、飽きさせた一つの要因だと思ってます。
そもそも鉄道が好きという漠然とした理由で撮っているから、15年間撮ってきたものはコレクションとしての記録なんです。それは今後も続いていくけど、時間は有限でコレクションの記録をしている時間すら惜しいと感じます。

主に理由は2つ挙げてみてから感じたのは、今が自分の写真の分岐点?というか写真というものに向き合う時なのかもしれないということ。

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自分がカメラを持ったきっかけは、鉄道が好きなこと。鉄道の車両がカッコいいとか綺麗とかエモいと感じるから15年間撮ってきた。新幹線の造形がカッコいい。レトロな国鉄型車両のいる情景に心を惹かれた。日本の四季を駆ける鉄道車両が美しい。少し前からは鉄道に関わる人々にも焦点を当てて、人と鉄道が生み出すストーリーに感動したり、共感したりした。
様々な理由を整理してみたけど、その理由や気持ち、感性に自分自身が正直に向き合って、自分がカメラを持つ理由を整理する時間が必要だ。

受け売りの言葉だけど、カメラは一点の時間を切り取る、一瞬を写す道具。写真というのは、時が流れて続けている中で、シャッターがその中の一瞬、一時を永遠に閉じ込められるもの。前後のストーリーは、写真を見てもイメージ、想像であると。

自分はカメラで鉄道の何を写したいのか、鉄道を何に表現したいのか、鉄道を何で表現したいのか、いっぱい考えることにします。

あ、これは「ブルーピリオド」の受け売りです。
めちゃくちゃ感化されてます。

話が逸れそうになったところで今日はこのくらいにしておきます。
また何か考えて、書き留めておきたくなったら書きます。
それでは。

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