火花

気まぐれの肯定。

「女心と秋の空」というように、気まぐれなのは女性の専売特許だと思っていたのだけれど、僕も相当気まぐれだ。

最近は特にそうで「いいこと考えた!」と喜び勇んで動くものの、先に自分のほうが飽きて、人に迷惑をかけることもある。そんなことが続くと、飽きる自分がこわくて、人となにかがやりづらくなる。

それが昨日のテレビ会議で「気にしなくていいよ」と言ってもらえて、本当にホッとした。

言ってくれたのは、フェンスワークスの田中 聡くんで、たしかこうも言ってくれていたと思う。

「興味の最先端のところでバチンと出会いたい」と。

飽きたものを無理に続けようとするのではなく、新たに芽生えた興味の最先端の、梢で出会いたい。バチンと。火花が散るくらいに。

本当にうれしかった。そして、それは聡くんとなにかしたいけれど、いまじゃないということを意味してもいた。だから、うれし苦しくもあった。

気まぐれは、頭で思うようにコントロールはできない。
飽きるときは飽きるし、次に進むときには進みたい。いまじゃないときは、いまじゃない。

それに任せていると、朝令暮改で前に言ったことと違うことを言うことにもなるし、人を振り回すし、約束を反故にすることにもなりかねない。それが怖くて、僕はいま「興味の赴くまま」の気まぐれな性質を「危なっかしいな」と思ってみている。

でも、いいところだってある。

まずなにより飽きて飽きて、それでも残るものが分かるということ。「続けよう」と縛らないまま、残っているもの。これは、わりと長い時間を約束できるものになる。

僕にとっては、歌や音楽や「きくこと」への関心がそれにあたる。あとは結婚生活もそうだ。

そして、昨日は大事なことを忘れても、思い出させてもらえることが分かった。まだ、うまく言えている感じがしないけれど、あの感じはとっても大事なように思える。

なんていうのかな、気まぐれだと言いつつ、そんなにその場しのぎで生きたいわけじゃないので。糸の切れた凧のようではなく、もっと確かなものを永く続けていきたいと思っているからかな。

でもそれは、自分に嘘をついてまでそうしたいとは思わない。

昨日忘れていたものを思い出させてもらったことは、その両方を叶えうる安心感があった。なんというか、自分が「興味の赴くまま」に動いても「大事なもの」は人とのあいだに残っている、という手応え。

「ちゃんと憶えているから大丈夫だよ。」

そんなふうに言ってもらえた感じがしたのだ。

今日もまた、僕はきょろきょろしながら興味の梢を探している。
それに触れて感動しながら、その火花の中に生まれてくるものを眺めている。

そして、これはここだけの話だけれど、一見気まぐれに、手当たり次第に動いているように見えながら、ぶっとい何かが自分の中に育ってきている手応えを感じてもいたりするのだ。人にはうまく説明できないけどね。

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