こわがられる_

怖がらせる。怖がらせない。

「もっと前に。もっと大きく」

それが、僕の歌に対してなされたファシリテーションだった。

昨日、僕たち『魂うた®️』ファシリテーターは、名古屋に集まり、練習会を行った。

午前中から夕方まで、交代で歌い合い、ファシリテーションをし合い、一曲ごとに体験を振り返って理解を深めていった。

僕はその日、二曲歌った。
いずれも聴いている人に向けて、もっと「出す」ように促された。そうすると、聴いている人が「キャー!」とうれしくなるような歌に変わったという。

その歌は、普段唄っているレベルよりも、だいぶ出している感じだった。「そんなに出すと、怖がられちゃうんじゃないか」と思うくらいに。

このファシリテーションを受けて思い出したのだけれど、僕は、人に「怖がられているな」と感じることが時々あった。

自分がはっきりと意志表示をするときには、特にそう。
そういうとき、相手がすっと引くのを敏感に感じ取ってきた。

そのせいなのか、集合住宅に住んでいるせいかは分からないけれど、僕の歌は、ずいぶん「抑えて」「控えめな」歌のようだった。

「これは出しすぎでは」と思うレベルまで出しても、聴いている人は喜びこそすれ、怖がったり、不快に感じたりはしていなかった。ファシリテーションを受けるまで、聴いている人が満たされるポイントが、そんなにも前の、大きな音量のところにあるなんて、思いもしなかった。

もしかしたら僕は知らないうちに表現を引っ込めているのかもしれない。
まるで、足が無意識に消音ペダルを踏んでいるみたいに。

その晩、児童館でいっしょに働く若い人たちと飲み会をした。
飲み会といってもほとんどが下戸で、ウーロン茶とジンジャーエールとオレンジジュースを飲みながら、鶏皮なんかを食べていたのだけれど、話が盛り上がってきたときに、一人のメンバーがこう言った。

「いや、澤さん、こわいっすよ」

聞くと、他の職員のようにわーっと打ち解けられるような感じがないらしい。

この間叱ったときはともかく、僕は普段、誰かに厳しいことを言ったりはしない。なのに、なんとなく人を怖がらせる雰囲気があるのだそうだ。

一瞬、えっ?と思ったけれど、そうかもなと納得してしまった。
不思議なことに、それを聞いてなんとなくラクな気持ちにもなった。

今日、そのことを他の職員さんに話したのだけれど、やはり初対面のときには見透かされる感じがして怖かったという。

「人を怖がらせないように」と表現を控えていても、僕は怖がられていたのだ。

それで、僕はこわい人でもいいのか、と思った。
それはなんだかラクな感じがした。

遠慮なくそう言ってくれる人たちが近くにいて、うれしいなとも思った。

「怖がられるかもしれない」ということを理由に、なぜかブレーキをかけていた力。

以前「自分の力を一番怖れているのは自分自身」と聞いたことがあるけれど、僕もそうなのかもしれない。

全力を出すとぶっ壊れてしまうのではないか。
誰かを傷つけてしまうのではないか。

昨日、聴いている人を喜ばせた歌は、そんな懸念をはるかに飛び越えたところで、自分の力を発揮させていた。

気持ちよかった。

怖がらせる自分。怖がらせない自分。

自分の認識と現実とのギャップに、少々とまどっているけれど、このギャップはなんだか大事なことに思えている。

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