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終わらない子育て。

「障がい者の親の子育ては、ずっと終わらない」

今日バイト先の施設の研修で、そう聞いてハッとした。
そして親御さんの気持ちに、はじめて触れた気がした。

それはしんどいだろうな、と思った。

障がいをもつことは、子どものままでいることに似ている。
たとえば知的障がいの場合、体は大人とおなじでも、思考や行動は幼児のまま。身体障がいなら体の方が子どものまま。その育ちは止まっているか、ゆっくりすぎて止まっているように見える。

「障がい者」と呼ばれる人や子どもたちは、僕からすると「健常」な大人たちよりずっとシンプルで、付き合いやすい人たちだと思っていた。けれど、彼らと生きている親御さんの気持ちまでは想像できていなかった。

自分の子どもが、ほかの子のように育っていかない。
どんな親だってそれは焦るだろうし、急かしたくもなるだろう。
でもその気持ちが親子どちらも追い込むことになってしまう。

大正時代の1918年、当時の精神障がい者の扱われ方に対し、東京帝国大学の呉秀三という人がこう言ったそうだ。

実にこの病を受けたる不幸の他に、
この国に生まれたる不幸を重ねるというべし

ただでさえ障がいがあるのに、この国に生まれたことでさらにしんどい思いをしている。

そうした障がい者を取り巻く状況は、100年後の今でも続いている。
それどころか「健常」とされる子どもの子育てでさえ、あっぷあっぷのようだ。

天から障がいを与えられて生まれたことが「不幸」なのかどうか、僕にはわからない。不便ではあろうけど、不運と言っていいのかもわからない。そもそも天与のものにそのような評価をすること自体、ナンセンスかもしれない。

でも、社会的な扱いにより、彼らがしんどい思いをしていることは、はっきりと不幸なことだ。なぜなら社会は人の集まりであり、人の思考や行動によってよくしていけるもののはずだから。

で、唐突に結論にとぶけれど「子育ては親だけがするもの」という考えが崩れたらいいんだろうなと思う。僕もあなたもそのへんのおじさんも、誰の子であっても子育てをしているような状態。そうすれば、親はうんとらくだろうし、ゆっくり育つ子を見守る心と時間の余裕も生まれるだろう。

そこに健常、障がいの分け隔てもない。ただ育ち方の違いがあるだけ。

そんなふうに思えたら、いいんだと思う。

思えば、僕自身、親以外の先輩や友人に育ててもらった自覚がある。親ができないことをしてくれた人、言えないことを言ってくれた人がいて、その人たちがいなかったら、僕はこうなれなかった。

それと同じ感じで。

赤ちゃんとみると、誰彼かまわず声をかけるおばちゃんを見かけることがあるけれど、あの人たちはもしかしたら距離が近すぎるのではなく「参加しますよ」という意思表示をしているのかもしれない。ギョッとする僕のほうがへんなのかもしれないな。

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