手間と効率。
奥さんが茜染めというのをはじめた。
すごく大ざっぱに理解したところでは、大きな鍋に布と染料を入れて、グツグツ煮るうちに布がきれいなオレンジに染まる。
この作業には4時間近くかかるらしい。しかもあまり目を離さず、ずっと付いていないといけないそうだ。実に手間暇のかかる作業で、ある日、奥さんはこれをなんとか効率的にできないかと考えていた。でも、この作業と「効率」という言葉はあまり似合わない気がした。
効率を考えすぎると、人は人間らしさを失っていくように思う。
そう思うのは、スーパーで品出しをしているとき、「どれだけマッハで並べられるか」とか「どれだけ美しく並べられるか」という方に意識が向き始めると、お客さんからの問い合わせを邪魔に感じてしまうからだ。
それだけでなく、時間がかかるものを「面倒」と感じて避けるようにもなってしまう。スーパーの商品棚には「レンジでチンするだけ」「茹でずにほぐすだけ」といった「効率」的な商品が並んでいるが、それで一瞬、利便を感じたとしても、人はすぐにまた新たな面倒を見つけてしまう。
あ〜〜〜〜!! めんどくせえ!!
はああ〜〜〜 息をするのもめんどうでいやだ
と言ったのは『北斗の拳』の悪役ゲイラだが、そんなところが人にはあるのではないか。
一方、若松英輔さんの『生きる哲学』に料理家、辰巳芳子さんについてのこんな文章がある。
辰巳にとって「待つ」とは、もっとも積極的な、それだけでなく、代替することのできない厳粛な営みであった。むしろ、究極的に人間に課せられているのは「待つ」ことであることを、彼女はさまざまなところで語っている。砂糖水を作りたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなくてはならない、そういったのは哲学者ベルクソンである。素朴な事実だが、「待つ」ことの、あるいは料理の根本原則が集約されている。(P.220)
「食べることは、人間の知性、感性をも左右し、さらに、人をして、その人こその人生を全うせしめる原動力、魂とでもいうより致し方のない、実存の核に深くかかわると、考えられてなりません」(『辰巳芳子の旬を味わう』「あとがき」)と辰巳は書いている。ここでの「実存」とは、「いのち」に直接的にかかわる問題であることを指す。
食は、誰の眼にも明らかなように、人はなぜ生きるのかという根本問題と直結しているではないか、どうしてそのことを軽視するのか、と彼女は幾度となく現代に問いかける。(P.222)
「レンジでチン」「茹でずにほぐす」料理と辰巳さんの「待つ」料理は似て非なるものに思える。できれば、「実存の核に深くかかわる」料理を僕は食べたい。
コロナ禍で家にいることが増えた奥さんは、よく料理をするようになった。スーパーやホームセンターではお菓子づくりの道具がよく売れているという。
手間暇をかけ、「待つ」ことができるようになったことで、人が人間らしさを取り戻す。もしかしたら僕たちは「効率」の反対側にある、そんな景色を見ているのかもしれない。
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