本の森をあるく_

本の森の散策。

昨日、この本のオンラインでの読書会に参加した。

読書会に参加したのは、はじめての経験だったけれど、すごく豊かで面白い読書体験だった。

僕はこの本の惹かれる箇所を、note の下書きに抜き書きしている。
落ち葉を拾うように「言の葉」を拾うこの作業をしていると、なんだか気持ちが落ち着くし、本をより深く味わえている実感が湧く。

昨日、僕はその抜き書きした言葉を読み上げ、思うところを語った。
たとえば、

P.12
 私たちの目の前で日々繰り広げられていたのは、今の現実を否定せず、相手や環境に逆らわずに物事を自然に決定していく姿だった。目的もわからない、即興にも似た行いは彼らにとってはナチュラルなのに私たちにはハプニングに見えた。だから「そんなことをしてどうするのか。それよりか何か実のあることが実現できるようになった方がいいではないか」とすら言うこともあった。

この「ナチュラル」と「ハプニング」という言葉に惹かれたことを話し、それから「むしろこんなふうにナチュラルでいられる障がい者の人たちにあこがれることがあるよ」なんて話をした。

こうして思うところを聞いてもらえるのもうれしかったけれど、それ以上に他の人に響いた言葉を教えてもらえるのがよかった。

P.13
 地球は球体だと頭で理解していても、日常ではフラットに見えてしまう。
 でも、まるいのだから必死に走り続ければもとの場所に戻るのだ。結局のところ目に見える何かを積み上げて成長しているように錯覚しても、元の場所に近づいているだけなのかもしれない。手に取ることも見ることもできない人間の行動の意味や価値は、いったいどこにあるのだろう。

僕はこの言葉を拾ってはいなかったのだけれど、その人の声で読んでもらうと、なんとも魅力的に感じた。

まるい球体を必死に走り続けて、もとの場所に戻るだけ。
「還暦」なんて言うけれど、生きて死ぬことはただ円を描いているだけなのかもしれない、なんて思わされる印象的な言葉だった。

この感じは、あれに似ている。
森の中を散策して、他の人がどんぐりを拾って「これはなんとかという種類だよ」とか木の脇にある動物の足跡を見つけて教えてくれる感じに。

ひとりで歩いていたら見過ごしてしまうことを、他の人の目や体を借りて体験できる豊かさ。

何かを見つけてもいいし、見つけなくてもいい。
森なんかみないで世間話をしてたっていい。
どんなふうに歩いてもいいし、休んでいてもいい。

この感じ、いいなあと思った。

これも昨日話したことなんだけれど、先日、僕は中学校でやるような国語のテストを受ける機会があって「傍線の意味するところを答えよ」みたいな問題を解くために文章を読んだ。

制限時間内に正答を見つける。そのときの「読む」は、文字がぜんぜん頭に入ってこなくて情景も浮かばない。ただテクニカルに文章の中の「回答」を探す無味乾燥とした「読む」だった。

おなじ「読む」でも、散策するのと問題を解くのとでは、ぜんぜん違った。ちょうど本の中に「ただ縫う、ただ削る」という言葉があったけれど、この「ただ」の感じがするのは、間違いなく散策の方だった。

そんなふうにたった一つの「言の葉」から、無数のことが語れてしまう感じがして、本当に楽しかった。いささか興奮しすぎてしゃべりすぎてしまったきらいがあるけれど、こればかりは僕の「ナチュラル」なんでどうしょうもないよな。

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