鬼ヶ島2

鬼ヶ島

2014年から2017年にかけて放映されたペプシコーラの「桃太郎」シリーズは、カッコいいし、歌もいいし、とても好きなCMだ。

中でも印象的なのは、第四弾として放映された「オニ」の話。

オニが「鬼」となった背景には、深い悲しみがあった。
原因は、人の裏切りだった。

それさえなければ。

最近、人が「鬼」のようになる場面に出くわすことがある。

例えば、娘の幸せをどうしても望めない母親がいる。

うまくいこうとする道を怒りでことごとく塞ぎ、娘はどこにも行けなくなる。「私と同じ苦しみを」と言わんばかりに冷遇し、まだ力が弱い娘の枷(かせ)になる。

そんなことがあるなんて知らなかったから、最初に接したときには驚いた。「それでも親か」と腹が立った。

しかし、関わるうちに、それほどまでに深く「鬼」が傷ついていることが伝わってきた。

誰にも聞いてもらえない痛みが、そこにはある。

そうは言っても、大抵の場合、その痛みに触れることはできない。
娘としての子どものつらさに触れるときに、その語りの中に「鬼」となった母の影が見えるだけで。

クレーマーと呼ばれる人にもそれを感じる。

本来は別の誰かに訴えたい痛みを、クレームの形に置き換えてぶつける。
本当に聞いてほしいことはクレームではないから、いつまで経っても状況は変わらない。

宛先不明のはがきのように、投げつけた言葉は、誰にも受け取られないまま、本人のところに戻される。

聞いてほしいのはその痛みで、本当に聞いてほしい相手は自分なのだと思う。でも、宛先も中身もわからなくて「鬼」は暴れることしかできない。

暴れれば暴れるほど、薪をくべられた炎のように苦痛は増す。

聞いてもらいたいのに聞いてもらなくて「鬼」は暴れる。
「鬼」の言葉は人を責めるばかりだから、接する人たちは、その猛威におののき、無視するか離れていく。

「鬼」は痛みがひどすぎて、自分がなにをしているのか分かっていない。
そしてその痛みは、他のだれか、弱い立場の人が引き受けることになる。

その残念すぎる行為を、僕たちは止めることができない。

ペプシのCMでも「オニ」の話はされたきりで、桃太郎に退治される敵として描かれて終わってしまう。

いかなるお辛いことがあったのか。
なぜそれほどまでに暴れておられるのか。

それを聞き、涙を一つ、こぼす者があったならば。

本当に「鬼」は退治されなければならないのか。
桃太郎の剣は、オニの声を聞く耳にはなりえないのか。

オニのしてしまったことは、確かにひどい。
「鬼」になった人のすることも、それだけを見たら救いようがない。

けれど「鬼」を退治して、それで終わることなのだろうか。

そう書きながら、自分は「鬼」になることはないのかと考える。
あったし、あるな、と思う。

そこから救ってくれたのは、やはり「鬼」の自分と対峙し、聞いてくれた人たちだったように思う。

いまも、そこかしこに「鬼」の声が聞こえている。
誰にも触れてもらえない傷の痛みを訴えている。

この世はまだ、鬼ヶ島のようなものかもしれない。

それを聞き、涙を一つ、こぼす者があったならば。

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