アイスクライマーズ

ファミコンとスイッチ。

先日、名古屋市の西念寺さんで、友人と「ファミコンやばいぜ。」と称したゲーム会をひらいた。

きっかけは、フェイスブックにこんな投稿をしたこと。

お茶会じゃなくて、ゲーム会やりたい。
ファミコンクラシック買って「ぐあー!エキサイトバイク!アイスクライマー!」とか言いながら騒ぎたい。いっそ無言でもいい。
(しかし、惜しいかな。うちにはテレビがない。)

これに友人が「うちでやります?」と声をかけてくれて、あれよあれよとお寺での開催も決まったのであった。

当日は、西念寺でひらかれている当事者運営のフリースクール「でらねこ」にお邪魔した。参加者は、高校生が三人、小学生が一人、大人が三人。

ドンキーコングからはじまり、スーパーマリオブラザーズ、アイスクライマー、エキサイトバイク、魔界村とわあわあ(主に大人が)はしゃぎながら、昔なつかしいファミコンゲームを堪能。

ファミコンからニンテンドースイッチ、そして、カードゲームへとやることが変わっていったのも面白かった。そして、ここには思わぬ発見があった。

それは、ファミコンからスイッチに変えたら、ぐんと会話量が減ったこと。

おそらく、だけれど、これは操作の複雑性もグラフィックの情報量も格段に増えていて、脳が処理する量が多いせいだと思う。スイッチに比べると、ファミコンの情報量は「すかすか」と言っていいくらい少なかった。

会話はカードゲームになると、さらに増えた。
コミュニケーション系のゲームだった影響もあるだろうけれど。

アナログゲーム>ファミコン>スイッチという形で減っていく会話量。

はじめは、人と人とをつなぐために作られたゲームが、いつしか自己目的化して、人の意識をゲームにだけ集中させるようなものに変質していったのかもしれない。

思い当たる節はある。

僕は1983年のファミコン発売の頃に小学生で、以降、スーパーファミコン、ディスクシステム、ゲームボーイ、プレイステーション、ニンテンドーDSとゲーム機の進化とともに成長してきたのだけれど、ファミコンの頃は、もっと周りに人がいた気がする。

当時、ナムコの「ファミスタ」という野球ゲームにハマっていたのだけれど、そのハマり方は、友達を呼んで対戦して、勝ったり負けたりする面白さによるものだった。

でも、ドラクエにハマった頃からだろうか。
人払いして、一人で画面に集中するスタイルに変わっていった。

家族旅行の車中でも、ひたすらゲームボーイをやっていた。
そういうときは、没頭して家族の声すら聞こえなくなったほどだ。

思春期だったこともあるのだろうか、僕にとってゲームは、人とつながるためのものから「壁をつくって一人になるためのもの」に変わっていった。僕はこうして書いたりしている割に自閉気味なのだけれど、その傾向もゲームをすることで培われたのかもしれない。

いま、電車でスマホゲームをする人や、児童館の学習会でiPadのゲームをやっている子をみていると、自分と同じように「ここからいなくなりたいのかな」と感じる。

ここにはいない。存在ごと画面の中に行ってしまっているような感じ。
それはやっている側からすれば、憂き世をしばし忘れられる快適なもので、けっこう依存性も高い。

でも、周りからすると、その人がいるのにいない奇妙な感じをおぼえる。
さみしいというか、むなしいというか。だから、声もかけにくい。

以前、ラーメンの一蘭に行って、うちの奥さんが「一人一人が仕切られていて気持ちわるい」と言っていたけれど、そんな感じに近いのかもしれない。ゲームをしている人は、見えない「味集中システム」の仕切りを外に出しているような気がする。

僕はゲームが好きだし、任天堂も好きだけれど、もしかしたらゲームは面白すぎない方がいいのかもしれない。

久しぶりに一人ではなく、みんなとワイワイやったゲームは、没頭できない手応えの薄さと引き換えに、いっしょにいる人と知り合える楽しさがあった。

現実から逃避せず、自閉も内向もしないゲーム。

そんなのやったの、ものすごく久しぶりだったかも。

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