話_語り_歌う_

話が語りになり、歌いはじめるとどうなるのか。(メルマガ『生きているQ』より)

この記事は、㐧二音楽室のメルマガ『生きているQ』の配信記事を加筆修正してお届けしています。(配信登録はこちらからどうぞ。)

こんばんは。澤です。

聴いてくださって、
ありがとうございます。

おとといの石切での
『未二観レビューの手ほどき』
の余韻がまだ残っています。

その中で強い印象として
残っているのが

「あの世」

という言葉です。

以前、こんなブログを書いたんですが、

この中で引用した

 普通話をしているときよりも語りになったほうがちょっと自我のコントロールが弱まる。歌になるとますますーーこの歌というのはたんにだれかの歌を歌うというのではなくて、歌い上げるとか、そういう場合を考えるとわかると思います。このようにずうっと並んでいる。

と似た話が石切でもありました。

話す、語る、歌うの順で
自我のコントロールが薄れる。

そのとき、自我がゆるんだ人には
「あの世」が映るのではないか。

そして
「あの世」が映った人の姿を
人は「本物」だと
感じるのではないか。

僕の解釈が含まれていますが、
そんな話でした。

そして、
歌や舞台といった芸能は、
もともと此岸と彼岸、
この世とあの世を
結ぶためにあった。

結界された時間と空間の中で、
いっとき、自我をゆるめ、
異界とつながることで、
人はふたたび日常を
生きる活力を得ていた。

いまもそうした
エネルギーチャージのしかたは
各地の祭りなどに現れています。

あるいは、芸能にまでならなくとも、
誰かと気があって、話が盛り上がって
つい熱弁しちゃうときには
語りが歌のように
グルーヴすることもあります。

そのとき、人は
「あの世」とつながっている。

「あの世」なんていうと、
オカルトだと思われるかもしれませんが、
もしかしたら、
もっと身近なものかもしれない。

というのも
『あなたのうた』で
曲をつくっているときや
『あなたのじかん』で
お話をうかがっているとき、

亡くなった方が現れると、
ぐっと歌や話の力が
増すのを感じていたからです。

もしかしたら、
いまの人々の苦しみは、
地縁が切れ、血縁が切れ、
人と人とがつながれなくなって、
「あの世」とのつながりも
途絶えてしまったからかもしれない。

石切から帰ってきて
そんなことを思っています。

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