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莫大な未知とほんの少しの既知。

昨日のお昼過ぎから『髑髏(どくろ)の円坐』という物騒な名前の場をひらいた。

名前とは裏腹に、静かで、光と陰が繰り返し現れながら豊かになっていく、充実した場になった。

以前、

と書いたとおり、ここで話されたことは文章にはできない。そこで会って、その順番で聞いた(辿った)からこそよかったわけで、要約するとその面白さが消えてしまう。

それでも終わった後に、あることに気がついた。
それは「未知」と「既知」についてのことだ。

昨日、僕はこの円坐で初対面の方二人の語りを辿った。
未知の彼らの言葉に意識を傾け、そして、たくさん誤解した。

はじめに「こうだろう」と想像した相手や、話に出てくる人物への印象が、次の語りを聞くと瞬時に変化する。そして、以前に話していた言葉の意味がどんどん深くなっていく。

『髑髏の円坐』の名前どおり、影の、ドクロになっていた部分が明らかにされるほど、その人の光が強さを増した。たった三時間の間にこれだけ印象が変わると、どんな人のことも簡単に決めつけることはできないなと思わされた。

人は他者にとって、次の一言ですべてが変わるかもしれないほど、未知なのだ。

とはいえ、僕らは既知を好む。
「わかる」ことを大事にするよう教わって生きてきたからだ。
「わかりやすい」ことは、おおむねいい事とされているし、「わからない」ことは、知って既知にしようという意識がはたらく。

だから、未知にはストレスをおぼえる。
特に「これでいいだろう」と思っていた既知の考えややり方がことごとく通用しない時、僕らは強いストレスを感じる。イライラするし、自分を責めたりもする。なんとかしようと必死にあがいても、やっぱりだめな日が続く。

でも、思うのだけれど、そういう時って本人に問題があるというよりも、未知が訪れているのではなかろうか。そして、その解決はある日突然、あるいは知らないうちに、スポンと起こるものではなかろうか。

そういうとき、不思議だけれど、未知の訪れは自分が変わる機会になっている。あがいているうちに、どういうわけか自分を取り巻く世界を新たに見る視界が手に入っている。乱気流の厚い雲を抜けた航空機みたいに。

それに既知ばかりがいいわけでもない。
身のまわりすべてが既知で固められてしまうと、なんと僕らは退屈して、物足りなさを感じてしまうのだ。不便!

最近、僕は似たようなことをフェイスブックにつぶやいた。

宇宙について天文学的に分かっていることは、実はとても少ないそうだ。同じように、人の心の深層についても、宇宙くらい分からないのかもしれない。そう思うと、なんだかしっくりくる。分かったような顔をしてる人が多いだけなんだと思う。
いままで考えたこともなかったんだけど「わかりやすい」って「不自然」なことかもしれない。そして「自然」って「複雑で捉えにくい」のことかもしれないなって、ふと。

昨日の円坐で僕が経験したことは、まさしく「複雑で捉えにくい」「自然」を「分からない」まま聞き続けることだったように思う。

既知だと思っていたら未知だった。
そうして覆されることの連続だった。

だから面白かった。

この円坐を経て「地図を書き換えよう。」という言葉がぽっと浮かんだ。
僕らの世界は、莫大な未知とほんの少しの既知でできている。
僕らは世界について、ほとんど何も知らない。

既知ばかりだと退屈する。未知だらけだとストレスだ。でも、その不快感はいつだって僕らの推進力になっているような気がする。やだけど。

そう思うと、不快だと思って遠ざけていたものに新たな意味が見出される。
ちょうど、この記事みたいに。

こんなふうにして今日もまた、僕は僕でいろいろな既知が未知と出合って新たになっている。

親潮が黒潮と出合って、新しい海流になっていくようなこの潮の流れがどこに向かうのか。正直、僕には分からない。ただ、ついていくしかないし、それだけで十分面白い。

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